雲海の下には何が待ち受けているか分からない
幸運か不運か
飛び降りてみなければ知ることはできない
客席フロアーの隅にある小さなステージの照明が徐々に暗くなった。 バンド交代の時間だ。 ノブは静かにステージを離れた。
ピアノがソロでワルツを演奏し始める。
『嘘は罪』。
コンボのメンバーは楽器を手に、目立たないようにステージを降りる。 やがてシンガーのケイがピアノからメロディーを引き取って歌い始めた。
……愛してるという言葉は本気で言ってね、嘘は罪よ……。
十一月にクラブに来る客は多くない。 ジャズの生演奏を売り物にしている横浜のこのクラブも、週末にもかかわらず客の入りは六割ほどしかない。 クリスマスシーズンの始まる十二月まで、こんなもんだろうとノブは客席を横目で眺めながら楽屋へ戻った。 トランペットを片手でくるくると回しながら、グラスにバーボンをいれた。
楽屋の隅で帳簿を眺めているマスターに声をかける。
「マスター、車借りてもいいですか?」
「なんだい、これからデートか?」
「渋谷でアカネが待ってるんです。 東名でひとっ走り行って来たいんですよ」
「いいけど、飲みすぎるなよ。 事故を起こされたらかなわん」
「明日の昼までには戻ってきます」マスターが投げてよこしたキーを、ペットを持ったままの片手で器用に受け取ると、ノブはグラスを飲み干した。
建物の裏手に置いた白いアルファロメオは、小雨の中で濡れていた。
「雨か、本降りにならなきゃいいが」
横浜インターから東名高速道路に入ると、ノブはスピードを百五十キロまで上げた。 ヘッドライトの光を反射して雨が銀色に輝いている。 東京インターまで距離で約二十キロ、あっという間だ。
料金所の看板が視界に入ると同時に、開いているゲートへとノブは右に急ハンドルを切った。 雨でスリップした車体は九十度傾き、地面とタイヤの擦れる嫌な音を立てて、横転したまま片側の車輪だけで走行、左側の壁に激突した。
けたたましいパトカーのサイレンの音が聞こえると同時に、慌しく点滅している赤いランプの光がノブの目に入った。 炎上は免れたらしいが、車体は完全に反転しているらしい。 ノブの体は完全に逆さになっていた。 粉々に割れたフロントガラスの向こう側にきな臭い匂いのする白煙が上がっている。 体を動かそうとすると、全身に激痛が走った。
「おい、まだ生きてるぞ。救急車を呼んでくれ。しかしよくまあ、生きていたもんだ」
車の中を覗き込んだ警官の一人が、相棒に呆れたように言った。
「これのおかげで命拾いしたな」 警官は同情のひとかけらもない声で、車内に取り付けられていたロールバーを叩いた。 その言葉は、すでに痛みで気を失いかけていたノブの耳にかすかに届いた。
真夏の強い日差しが、都会のアスファルトを溶かしている。 どこかにつけて客待ちをしようと、杉山伸治は新宿のホテルへと車を動かした。 バブルがはじけて十年以上が経ち、五十四歳でタクシーの運転手になってから、そろそろ二年が過ぎようとしている。 月々の収入は二十万少々。 三十万稼げる月はめったにない。 家賃を払うと残りは少なく、現在同居中の久恵とそのことで争いが絶えない。 文句があるなら出て行けと言いたいところだが、久恵の収入に頼っている部分もあって、実際に出て行かれたら、困るのは自分だと分かっている。
ホテルのタクシー乗り場には、数台の車が待機していた。 こんなに暑い日は、ワンメーターの客も多い。 あまり期待はできないと思いつつも、最後尾に車をつけた。 ホテルから出てきた客は、殆どがタクシーに乗り込む。 ホテルからは新宿駅まで歩いて十五分ほど。 灼熱の地獄を経験するつもりはないのだろう。
伸治の車が先頭になったとき、シルバーグレーのベンツがエントランス近くに止まった。 ドアボーイが近づいて、窓越しに何かを話している。 ベージュのスーツを着た男がホテルから出てきたのは、そのときだった。 いい客かもしれないと思った伸治は、その男がタクシー乗り場に歩いてくるのを見つめていた。
ベンツのドアが急に開いて、ポロシャツ姿の男が降りると、無言でスーツの男に向かって拳銃を発射した。 聞きなれない爆発音が伸治の耳を痺れさせた。 撃たれた男は、腕を前方に伸ばし、すがるような目で伸治を見つめると、スローモーション映画のように膝から崩れ落ちた。
病室の天井を見上げながら、ノブは自分の音楽人生の終わりを感じていた。 事故で右手の腱を切ったのはプレイヤーとしては致命傷だ。 復帰はできないだろう。 肋骨は何本か折れ、両手両足は複雑骨折をしていたものの、傷は内臓に達していない。
「運がよかったですよ」 と医者は言ったが、「運が悪かった」 とノブは思う。
「これからどうすればいい?」
あの日、渋谷で落ち合うはずだったアカネは見舞いにも来ない。 横浜のジャズクラブ「エバンス」でステージを終え、バーボンを喉に流し込むと、アカネの待つ渋谷へと車を飛ばした。 そのあげくがこのざまだ。 保険金は出るのだろうか? 車の代金をマスターに弁済しなければならないだろう。 仕事も当分ないとなると、先行きは真っ暗だ。自業自得という言葉がふと浮かび、ノブは苦笑した。
俺の人生はあの日から狂いっぱなしだ。 苦い思いと共に、ノブの脳裏に大学を退学になった事件が過ぎった。
あれは、はずみだった。身を守るのに精一杯だった。 相手がチンピラやくざという事もあって、恐怖が先立ち、無我夢中だった。 人を傷つけた記憶はないが、相手は全治三ヶ月の傷を負ったという。
大学入学の年、体育会系のクラブに所属、他校との交流、親睦を兼ねて盛り場へ繰り出した。 傍若無人に振舞う学生に、その店にいたチンピラやくざが目をつけた。 事の発端は何だったか分らないが、大乱闘となり、警察の介入するところとなった。
放校になったのは相手に怪我をさせたノブひとりだった。 他のものは停学処分を受けたものの、かろうじて籍は残っていた。 相手がやくざという事もあってか、裏で何かが動いたのか知る由もないが、起訴されることはなかった。 しかし学校へ戻ることはできない。
「これからどうすればいい?」
ノブはひとりで生きていかなくてはならなかった。 十八歳の夏だった。
東京オリンピックも、安保反対のデモも、皿洗いをして働くノブの傍らを通り過ぎていった。 好きだったジャズをただで聴けるという理由で、横浜のジャズクラブでボーイとして働くようになったのは、二十三歳のときだった。 五年が経ち、専属プレイヤーとしてやっと独り立ちできた今、又、運が自分を見放した、とノブは天を恨んだ。
事件の目撃者として、伸治は警察に事情を聞かれるはめになった。 職場や自宅に、ふいに刑事が現れる。 警察へ呼ばれることもある。 一日中警察に留め置かれて、日当は一万円。 やってられないと思うが警察は伸治の事情など頓着してくれない。 水揚げが減れば、当然収入も減る。 そのことで、久恵から嫌味を聞く回数が増えてきた。
しかし、何よりも伸治を悩ませたのは、撃たれた男のすがるような目だった。 昼も夜も、あの目が脳裏から離れない。
暴力団がらみと伸治が思っていた事件は、金融業者間のもつれから起きたと警察で知らされた。 白昼、拳銃で人が殺されるなんて、日本もアメリカ並みになったものだ。
六ヶ月ほど入院して、ノブは職場に復帰した。 ペットはもう吹けないが、水商売の素質と、音楽を聴く耳の良さを買われ、フロアーマネージャーの仕事を与えられた。 マスターは車の件は不問にすると言ってくれた。 まだ運はついているかもしれない。
ノブはマネージャーとして頭角を現し、抜群の記憶力と、気配りで、常連客が増えていった。 店も以前よりかなり繁盛している。 そろそろ支店を出しても良い頃合いだ。ノブがマネージャーになってから数年が過ぎていた。
「マスター、不動産屋が物件持ってきてますが、見に行きますか? うちの支店を出すには良い場所ですよ」
「そうだな、一度見てくるか」
「すぐ車をまわします」
サンダーバードを入り口に横付けし、マスターを乗せると車を発進させた。 国道一号線を東に進む。平日の午後二時頃とあって、道路は思いのほかすいていた。 見通しの良い直線道路を気持ちよく走る。 前方の信号が青に変わった。 進行方向に見える範囲の信号はすべて青だった。 ノブはスピードを少しあげて交差点を通り過ぎようとしたその時、側面から強い衝撃を受けた。 車はスピンを繰り返し、対向車線まではみ出して止まった。
「マスター! 大丈夫ですか?」痛みをこらえながら後部座席に首を向けた。
あの時のように遠くから救急車のサイレンが聞こえる。 ノブは額から流れ落ちる血で、眼を開けていられない。 もう一度「マスター!」と叫んだが、返事はなかった。
マスターは亡くなり、ノブは失職した。 ノブの顔には傷が残った。 事故の原因は信号無視の車によるものだった。 ノブに責任はないとはいえ、職を失ったことには変わりない。
怪我が治ると、ノブは死に物狂いで働いた。 念願の自分の店を持ち、支店も拡大し、美しい妻も得た。 妻に店をまかせ、何の不安もなくのんびりと暮らす生活が続いた。 何年間かすべてが順調だった。
月末には店の経理の者が帳簿を見せにやってくる。 八月も給料日を明日に控えた二十四日、通帳と帳簿を持ってノブのもとにやってきた。
「社長、実は……」
今はノブが社長だ。
「どうした?」
「不渡りを出しそうなんです。給料分も足りません」
「不渡り? 給料が払えない? 金がないのか? そんな筈はないだろう。 店は繁盛している」
「言いにくいんですけど」 と経理の者は話し出した。 ノブの妻が金を引き出して情人に渡しているらしい。 いくら繁盛していても右から左へと金が渡っていては通帳に残っているわけがない。 経理の者は昨日帳簿を調べてわかったと言う。
――うすうす気がついていたんですが、と申し訳なさそうに頭を下げた。
――社長には言いづらくて……。
ノブは店も妻も失った。 絶望のあまり、薬を飲んだが死ねなかった。 ノブは医者も驚くほど薬に強い体質だった。
久恵との生活もそろそろ潮時だと、伸治は考え始めた。 自分の人生もそろそろ引き際かもしれない。 ノブと呼ばれていた若い頃から、自分には運がない。 あの撃たれた男の目が、お前もそろそろだぞと言っているように思えた。
休みの日に、伸治は久恵をドライブに誘った。
「たまには箱根へでも行ってみないか」
朝から雨模様のその日、天気予報は台風の接近を伝えていた。 そんなことには頓着なく、久恵は子供のようにはしゃいでいる。
「珍しいわね。デートなんて久しぶりじゃないの」
しかし伸治は久恵に全てを話し、別れ話を切り出すつもりだ。
「……そういうわけで、俺は不運な男というわけだ」
東名高速を西に下りながら、助手席の久恵にノブは自嘲を込めて説明した。
「そうは思わない」 久恵は、前方を向いたまま答えた。
「そうは思わない? じゃぁ、どう思う? 幸運とは言えんだろう」
「幸運よ、二回も自動車事故で死にそうになったのに、こうやって生きてるし、薬を飲んでも生き返るし、幸運でなくて何なの?」
「本当にそう思うか?」
「もちろん」
『もう一度、運を試してみる価値があるかもしれない』 伸治は考えた。
『同居したときお互いが受取人の生命保険がかけてある。 事故を起こしても、どちらかが助かるかもしれない。 何回も失っている命だ。 失敗したってもともとだ。 俺に運があるか、久恵に運があるか、二人とも運がないか、試してみても悪くはない』
伸治は久恵に向かって笑いかけた。
「おまえはほんとに素晴らしい考え方をする」そう言うと、アクセルを目いっぱい踏み込み、CDのスイッチを入れた。
……愛してるという言葉は本気で言ってね、嘘は罪よ……。
パティー・ペイジの少し掠れた声が流れ出した。
思い切って雲海へと飛び込んだ
この先に天国があるか地獄があるか
それはこれから分かるだろう
了