(一)

白い霧が地を這っている。 風に流されて、まるで生き物のように千晶の車に向かってくる。
薄い布の帯のような霧はひとすじ、ふたすじと増え、まもなく道路を覆ってしまった。
タイヤは霧に隠れ、雲の上を走行しているようだ。
対向車も来ない、前後に車の影もない峠の道を走りながら、千晶は車のハンドルを持つ手に力を入れた。
今日の午後、釧路空港でレンタカーを借りた時、二十五歳の千晶より若いと思われる受付の男が確かに言っていた。
「この時期は霧も多いし、まして慣れない峠道は危険です。やめたほうがいいですよ」
大丈夫、峠は行きません、明日朝早くに釧路高原をドライブしたいだけと、千晶は言い訳めいた口調で答えた。
不安げな顔で渡してくれた車のキーを受け取ると、ヤードに置いてある赤のカローラに向かった。
前列の真ん中くらいにおいてあります、と背後から声がかかる。 千五百ccあれば峠越えも大丈夫だろう。
多少安くてもコンパクトカーでは心もとない。 それに何よりも、大輔が借りた車と同じ車種だ。 彼と同じルートを走ってみよう、
千晶は東京を出たときからそう決心していた。
秋に千晶と結婚することになっていた中森大輔が行方不明になったのは三週間前のことだった。
すでに六月の初めに簡単な結納を済ませ、手違いがあったとかで遅れるかもしれないと言われていた婚約指輪も、どうやらその日までには間に合った。
ダイアの指輪をはめて、千晶は微笑んだ。
――私は幸せ。
千晶はお返しに、自分の机の上にいつも飾っておいた父の形見のライカM3を大輔に贈った。
「家に来ると、いつも大輔さんはあればかり見てるようじゃない? 他のものよりあのカメラをあげたら? 千晶には猫に小判よ」との母の路子の助言に従ったのだ。
お父さんが生きていらしたら、大輔さんとは良い話し相手になったのにね、と路子は少し寂しげに笑った。
ライカを手にして、大輔は子供のような笑みを浮かべた。 小柄な千晶にはずっしりと重く感じられるカメラも、手に丁度良いようだ。 はやく使ってみたい。
大輔の顔にはそう書いてあった。
「結婚すれば撮影旅行なんてなかなか行けないからさ、ね? いいだろう? それとも一緒に行く?」
大輔の撮った写真は好きだが、一度撮影に同行して以来、一緒に行くのはもうこりごりだと千晶は思っている。 ポートレートには殆ど興味を示さない大輔は、
千晶を被写体にして撮った写真がほんの二、三枚あるだけで、写すのはもっぱら自然、いわゆるネイチャーフォト。 光の具合、雲の状態、空の色、全てが気に入るまでじっと待つ。 あの気の長さには付き合いきれない。
七月に早めの夏休みをとって北海道へ一人で行くのだと言う。 結婚前なのに、と千晶は渋った。
「道東周辺や湖を一度は見てみたいな。でも撮影するのはいわゆる撮影スポットじゃなくて、人のいない湖とか名もない木とか丘とか、
北海道には沢山あると思うんだ」
行かないでと言えば中止しただろう。 でも、千晶は口には出せなかった。 父のライカで写真を撮りたいと言っているのだもの。
「一人旅は最後にしてね。 結婚したらやめてよ」
「もちろんだよ。もうチーちゃんを置いて出かけないよ。 今回が最後だよ」
七月二十日に女満別まで飛んでレンタカーを借り、四日間かけて釧路まで南下する。 二十四日に釧路空港から羽田まで帰ってくると大輔は嬉しそうな顔で話した。
「その日は夕方には羽田につくから、レストランでご馳走するよ。
それに休暇は一週間だからさ、あとの二日間はチーちゃんの好きなところに行こう」
約束の日に羽田まで迎えに行った千晶の前に、大輔は到着ゲートから現れなかった。
連絡をしようにも、大輔は携帯電話を持っていっていない。 撮影中に邪魔されるのがいやで、旅行には持っていかない主義だと千晶は聞いていた。
「何かあったらホテルに電話してくれればいいさ」
一抹の不安を抱きながらも、約束を破った大輔に腹を立てた。 私の事なんかどうでもいいんだわ、撮影に夢中なんだわ、と不貞腐れていた。
本気ではなかったが、今からでも婚約解消してしまおう、とさえ思った。 最後に泊まるはずの釧路のホテルに電話を入れてみたものの、「中森様はキャンセルされました」とフロントに言われただけだった。 大輔の実家に電話をしても、まだ帰っていないという。
「あの子のことだから、また写真に夢中になってるんでしょう。 ごめんなさいね、これで最後にしなさいときつく言っておくわね」
母親の恵子の口調は屈託がない。
しかし休暇の最終日になっても大輔は帰宅しない。 これはただ事ではない。千晶の不安が増大した。
そんな時、恵子から電話があった。
「釧路のレンタカー会社から連絡があってね、契約の日を過ぎているのに、借りた車が返却されていないというの。 千晶さんは大輔の予定聞いていない? 私には北海道へ撮影にいくと言っただけなのよ」
「三日前には戻ってくる筈だったんです」自分の声が震え、膝頭ががくがくするのが分かった。
「明日、会社の帰りにそちらに寄ります」そう言うのが精一杯だった。
千晶は子供服の会社に勤めている。 現在は渋谷のデパートが勤務先だ。 大輔の実家は目黒区青葉台にあり、勤め帰りに寄るには便利な立地だ。
比較的空いている店舗でもあり、早退するのにも気兼ねが要らない。
クーラーの効いたデパートから出ると、熱風が千晶を襲った。 夕方四時とはいえ、太陽は射るような光線を注いでいる。 歩くのはきつい。 汗だくになって大輔の家にたどりつきたくはない。 まだ結婚前なのだ。 近場で悪いと思いつつも、デパートの前からタクシーを拾った。
チャイムを押すと、母親の恵子がドアを開けた。 いつもはきちんとしている髪も今日は乱れている。 顔に化粧の跡もない。 手土産にと差し出したアイスクリームも目に入らないようだ。
居間のソファに座ると、千晶は早速メモを取り出した。
「これが大輔の予定なの?」恵子はひったくるようにメモを手にした。
「ええ、そう言っていました」
「これによると、二十四日には戻ってきてるはずよね」
「私、羽田まで迎えに行ったんですけど、かなり待ったのにゲートから出てこなかったので腹立てて帰ったんです。 少し変だとは思ったんですけど……。
航空会社の搭乗者名簿にも名前がなかったし……。 それであの時お電話したんです」
「あの子は子供の頃から夢中になると何もかも忘れる性質だったわ」恵子はため息をついた。
――そうなんです。 私も何回か約束をすっぽかされました。 心の中で千晶は呟いた。
「まさか、会社のことは忘れないでしょうから、何かあったのは確かだと思います。 病気や怪我だったら病院から連絡があると思うんです。
保険証も持っていってるし」
「そういうところは慎重だったから」恵子は力なく微笑んだ。 「でも一応、警察へは捜索願を出したほうがいいわね。 お父さんと相談してみるわ。
大輔の会社へも連絡を入れないといけないし」
警察が親身になって探してくれるとも思えない、大の男が何日か帰らないくらいで警察が動くはずがない。 自分で行こうと千晶は決心した。
「休暇を取って、私、北海道へ行ってきます」
「あなたが?」恵子は少し驚いたようだ。
「ええ、夏休みもありますから」
「私も行きたいけど……」
とんでもない、足手まといだわ、そう考えた千晶の気持ちを感じたのか「あなたに任せますね、よろしくお願いします」と恵子は頭を下げた。
少々後ろめたい気持ちで千晶は大輔の家を後にした。
会社の同僚との調整の結果、休みが取れたのは八月も半ば過ぎの、旧盆の後だった。 事情を話していないので、強引に先にとるわけにもいかない。
ひょっこり帰ってくるかもしれないという願いもむなしく、大輔の行方は分からなかった。 中森家もレンタカー会社への損害賠償や、大輔の勤め先との交渉、
警察への問い合わせなどで休む暇もないようだ。 恵子は心労でとうとう寝込んでしまったらしい。 妻に寝込まれた父親の健二も疲労がたまっているだろう。
定年まで後三年と聞いている。 疲れと心痛とで体力が持つだろうか。 二歳上の大輔の姉、智子は夫の仕事の関係で大阪にいるはずだ。 現在は四歳の幼児と乳飲み子を抱えて動きが取れない。 動けるのは私だけ……。
大輔の両親のことも心配だが、大輔本人のことを考えると胸が痛くなる。 娘の焦燥を見かねたのか、路子が夕食時に切り出した。
「ママが時々中森さんのところに顔を出しておくから、千晶はこっちのことは心配しないで出かけなさい。 あちらでも専門家を頼んで探すようだけど、やっぱり自分の目で確かめたいでしょう?」
「ありがとう、やっぱり私のママだわ」大人になってまでママと呼ぶのは気恥ずかしいが、小さい頃からの習慣だからと家の中では割り切っている。 いまさらお母さんとは呼べないし。
八月十六日、路子に送られて羽田に着いた。 杉並の家から羽田まで高速道路を使って一時間ほど、まだ朝のラッシュは始まっていない時間帯だ。
「気をつけていくのよ。連絡はまめに頂戴ね。行方不明にだけはならないでね」
「うん、分かってるって。 心配しないで、ママ」車を発進させようとしている路子に手を振ると、千晶は受付カウンターに急いだ。
(二)

白い霧は既に千晶の車全体を包みこみ、フォッグランプを点けていても、視界は十メートルほどだ。 前方を行くトラックの赤いテールランプが微かに見える。 今はあれだけが唯一の道標なのだ。 見失ってはならない。
千晶は目を凝らし、赤いランプを見つめ続けた。 トラックは速度を上げている。 地元の車なのだろうか、霧に慣れているのだろうか。 ハンドルを握る千晶の手に、ますます力が入った。
同じ北海道なのに、たった四日のことなのに、こんなにも気候が違う。 千晶は女満別の空港で見上げた青い空を思い出した。
北の国の空港は想像していたより近代的だった。 ロビーにはひまわりの写真を使った大きなポスターが張られている。
空気はひんやりとして、東京の熱気が嘘のようだ。
空港ビルから通りを隔てて、レンタカーの会社がいくつか軒をならべているが、大輔なら多分N社の車を借りるだろうと当たりをつけた。
「いらっしゃいませ」と向かえたのはたった一人の女性の係員だ。 レンタカーを借りたい旨を伝えると、大きくN・レンタカーと横腹に書かれたミニバスに案内された。
「お乗りになってお待ちください」係員に促されてバスのステップに足を乗せた。中を見回すと、既に何人かの客が座っている。 どうやらレンタカー会社までこのバスで行くらしい。まだ出発しないのなら外にいようと、千晶はバスを降りた。 両手を組んで思いっきり背筋を伸ばす。
青い空に綿菓子のような雲がひとつ千晶の目に映った。
ミニバスに揺られて五分、レンタカーの会社に到着した。 大輔はここで車を借りたのだろうか? 千晶は五十歳ほどの男性の係員の前に立った。
「あの……」
「いらっしゃいませ。車種はお決まりですか?」
「ちょっと伺いたいことがあるんですが……」
「はい、何でしょう?」係員はあくまでも愛想がいい。
「実は、七月の二十日に知り合いがここで車を借りていると思うんですが、調べてもらええるでしょうか? 中森大輔という名前なんですけど」
「はっ?」係員の怪訝な顔を見て、千晶は仕方なくかいつまんで事情を話した。 千晶の真剣な顔と熱意に押されたのか、係員は少々お待ちくださいと書類を調べ始めた。
「中森様は七月二十日にご来店されています 。白のブルーバードを選ばれて、二十四日に釧路空港での乗り捨てをご希望でした。
二十三日の午前中に釧路空港の営業所でその車は確かに返却されています」
大輔は釧路で車を借りなおしたのだ。 何があったのだろう? 千晶は同じ車を借りることにした。
「同じ車種ということでよろしいでしょうか? 中森様がお借りになった車は今出払っていますので」
ええ、もちろん、と千晶は答えた。 大輔と同じように三日後に釧路空港の営業所で乗り捨てすることにした。 キーを受け取り、車へと向かう。
背中に視線を感じて、思わず振り返った。 しかし、千晶を見ているものはいない。
――気のせいかしら? 神経が過敏になっているんだわ。
車に乗り込むと、大輔の残したメモを見る。 女満別で車を借りてその日は屈斜路湖半のホテルに宿泊とある。 そこに三泊する予定だった。
千晶も東京を出発する前に同じホテルに予約を入れた。 大輔なら屈斜路方面へ南下する前に、空港の北に位置する網走湖と能取湖を訪れるのではないかと千晶は見当をつけた。
北海道の道路は広く、通行する車も少ない。 千晶はゆっくりと車を走らせた。 早朝に出発して、朝から何も口にしていない。 そろそろ昼時でもある。レストランを探しながら湖畔を走った。 やがて『ソフトクリーム』と書かれた幟がはためいているログハウス風の喫茶店に通りかかった。 サンドイッチくらいはあるわよね、と千晶は車を駐車場に入れた。
ドアを開けようとすると、横にスリッパが幾つも無造作に入れられた籠がある。 右手には靴箱らしき棚がしつらえてある。
――えっ? 中に入るのに靴を脱ぐわけ?
入り口には『スリッパに履き替えてください』と書いてある小さな紙が張ってあった。 仕方なく靴を脱いで棚に置く。 店内は錨や、網をかけた大きなガラス球、赤と白の救命浮き輪などが飾られていた。そのせいか、店の広さの割にはテーブルや椅子の数が少ない。 千晶は窓際の席に落ち着くとメニューを開いた。 サンドイッチはないがカレーならある。カレーなら無難だわと注文を済まし、窓から湖を眺めた。 湖面は午後の太陽を反射してキラキラと輝いている。 もし大輔がこの喫茶店に立ち寄ったなら、お店の人が覚えているかもしれない。 淡い期待を抱いて千晶はウェートレスに声をかけた。 持参した大輔の写真を見せる。
「七月の二十日ごろなんですけど、この人、ここへ来ませんでした? 見覚えないでしょうか」
「申し訳ないんですけど、その頃はお客様も多くて……」ウェートレスはちらっと写真を見ると、困惑した顔で答えた。
「そうよね、ごめんなさい、変なこと聞いて」写真の中の大輔は笑みを浮かべて千晶を見つめていた。
昼食の後、湖畔を少し散歩しようと店のドアを開けた。 靴を取ろうとした時、ふと違和感を覚えた。
――靴の位置が違ってる……。誰かが私の靴を触った?
千晶はいつもつま先を手前にして、棚の真ん中に置く。 靴を脱ぐ場所では無意識にそううしている。 常より少し左に寄っていると思いつつも自信はない。
――勘違いかしら……。
店内では親子連れが二組、賑やかに談笑している。
――私どうかしてる……。誰かが偶然触ったのかもしれないし。
湖畔の遊歩道は、人影もなく湖面に出ているボートもいない。 大輔はどこへ行ってしまったのだろう、今何をしているのだろう。
まさか……、千晶の頭の中を色々な思いがぐるぐると回っていた。


網走湖を離れて能取湖に向かう。 行き交う車はほんの数台。 秋になれば赤く色づいたサンゴ草を見に大勢の観光客が押し寄せるのだろうが、今はまだシーズン前とあって、能取湖の駐車場に停まっている車は一台もない。
携帯電話は持っていないし、たとえ持っていたとしても電波が届かないかもしれない。
ほんの少し赤くなり始めたサンゴ草と澱んだ水を見つめ、「今、どこにいるの?」と問いかける。
大輔の声が『チーちゃん、ここだよ』と答えたような気がした。
屈斜路湖へはわき道を行こうと決めて、千晶は車を発進させた。 目的地のホテルをナビにセットする。 こうしておけば道に迷う心配はない。 国道や県道でなくても、道路は整備されている。 両脇には広い草原が続き、遠くには山々が連なっている。 大輔と二人で来たのなら楽しい旅になっただろうが、今の千晶の心は重く沈み、風景を鑑賞する余裕はない。
美幌峠を越えると、屈斜路湖へ出る。 予約したホテルの駐車場に車を滑り込ませながら、千晶はかなりの疲労を感じていた。 チェックインを済ますと、部屋でバスを使い、倒れるようにベッドに横になった。
大輔が心配そうに千晶を見つめている。
『チーちゃん、チーちゃん』霧の向こうで大輔が呼んでいる。 悲しげな声は徐々にちいさくなり、大輔の姿はやがて霞んで見えなくなった。 白い霧が視界をさえぎっている。白く濃い霧が千晶を襲う。自分の叫び声で千晶は目を覚ました。
全身が汗でじっとりとしている。
「夢?」
外は既に闇が支配していた。 枕元においた携帯電話を開く。 時刻は十時を回っていた。 シャワーで汗を流し、千晶はバーに行くことにした。 今日はお昼にカレーを食べただけ、それも半分ほどだ。何かおなかに入れなければ……。 レストランはもう閉まっているだろう。 バーなら軽食ぐらい置いてあるはずだ。
一階にあるバーでは、数組が静かな夜を楽しんでいた。 レイクブルーというカクテルと軽食を注文する。 青い液体を口に含みながら、さっきの夢は何だったのだろうかと、千晶は考えていた。 大輔が何かを伝えたいのだろうか。そ れとも不安があの夢を見させたのだろうか。
(三)
霧はますます濃くなり、トラックの赤いランプも見えなくなった。 車のボンネットさえ見えない。 白い檻の中に入れられたようで、千晶の心臓は鼓動を速めている。
手は汗ばんで、ハンドルが滑る。 車を停車させ、ハンカチで手を拭った。

屈斜路湖で三泊していた間に、千晶は摩周湖や、阿寒湖にも足を伸ばした。 さすがに有名な観光地とあって、どちらも人と車で一杯だ。
ここに大輔が長居をするはずがない。 硫黄山の南側に秘境があるとホテルで聞いて、そちらに向かうことにした。
川湯のエコ・ミュージアムセンターへ車を置き、散策路へと足を進めた。 原始林で覆われた道は、昼間でも薄暗い。頭上から聞こえる鳥の声は耳に心地よく、ときおり見られる動物の足跡が秘境を感じさせる。 しかし、一人で歩く原始林はあまり気持ちの良いものではないと千晶は思う。 草むらで音がすればはっとし、鳥の飛び立つ音にドキッとする。いかにも大輔が好きそうな場所だ。 原始林の奥深く眠る湖は格好の被写体だ。 そうは思っても、大輔がここへ来た跡が見つかったわけではない。 千晶は虚しさと徒労を感じ始めていた。
――こんなことをしていて、意味があるのかしら……。
釧路まで行ったことは確かなのだから、ここでこうしていても仕方ないかもしれない。
ホテルでは毎晩同じ夢を見る。 『チーちゃん』と大輔が呼ぶあの夢だ。
――何かが起こったことは確かなのだから、頑張って突き止めなくては……。
千晶は自分を奮い立たせた。 それに時折感じる視線も気になる。 誰もいないはずなのに自分を見つめている視線、あれは何なのだろう?
東京を発って四日目の朝、千晶は釧路へ向かってホテルを出発した。午前中に釧路の営業所に車を返却しなければならない。二四三号線から三九一号線へ入り、まっすぐ南下する 。釧路までは一本道だ。 昨日までの天気とは打って変わって、今日はうっすらと霧が出ている。
空港近くのNレンタカー営業所で千晶は車を一旦返した。 釧路のホテルで一泊する予定をキャンセルした大輔は別のレンタカーの会社で車を借りなおしている。 大輔が予定を変更した理由は何だろう? 空港へ向かうレンタカー会社のミニバスの中で、千晶は考えを巡らした。
出発ロビーは思いのほか混雑していた。 案内板を見上げると、「只今天候調査中」の文字が幾つも見える。 インフォメーションカウンターでは、問い合わせの客の応対で忙しいらしい。
千晶は近くの喫茶室に入り、コーヒーを注文しがてらウエートレスに尋ねた。
「天候調査ってどういうこと?」
「霧が深いと飛行機が飛ばないんですよ」
――霧……。 二十三日も同じだったのかしら。 でも帰るのは二十四日の予定だったわ。
急いで支払いを済ますと、千晶はTレンタカーの会社へと向かった。 車が返却されていないと大輔の実家へ連絡してきた会社だ。
T社では大輔のことをよく覚えていた。 大輔の実家では結構な額の賠償金を支払ったと聞いている。
「ええ、あの日は濃霧で昼から飛行機の発着がなかったんですよ。 飛行機が到着しなければ、出発もないということになります。 次の日使う機材がないわけですから。 ですから二十四日の午前中の欠航も決まっていました。 中森様はどうしても次の日に東京へ戻りたいと仰ったので、千歳までいけばいくらでも飛行機は出ていますよと申し上げたんです」
「それで車で千歳へ?」
「ええ、明日の朝まで待ったほうがいいと何回もお勧めしたんですが……日勝峠を越えなくてはいけないし、慣れない夜の峠越えは危険ですし、霧だって出てるかもしれないし、それに……」
「それに? なんでしょう?」
応対した中年の係員はいかにも困ったという顔をしてみせた。
「あそこは霧の日に悪霊が出るという噂もあるんですよ」
「まさか……、悪霊なんて」信じている人もいるのね。 千晶は心の中で微笑んだ。
千晶との約束があったから、大輔は無理をしたのだ。 二十四日の飛行機にはキャンセル待ちをしても乗れないと思ったのだろうか。 連絡さえ入れてくれれば、そんな無理をさせなかったのに。 思い立ったらそうしないではいられない大輔の性格が災いしたのかもしれない。
運転免許証を取り出し、千晶は同じ車種を借りたいと申し出た。 千歳で乗り捨てます。確かカローラでしたよね。
「お客様もこれから車で千歳へいくつもりですか?」 驚いたように中年の係員と横にいた若い受付の男が同時に叫んだ。 これ以上のトラブルはごめんだと二人の顔に書いてある。 そんなつもりはありません、千歳へは明後日にでも行こうと思っているとごまかした。 明日は早朝から釧路高原をドライブしたいので……。
若い受付の男は、くれぐれも夜の峠越えはしないようにと念を押して、それでも不安げに車のキーを渡してくれた。
それが今日の午後だった。 遅めの昼食を途中でとり、千歳へと車を走らせる。釧路から千歳まで三百キロ以上ある。順調にいっても五時間以上はかかる計算だ。途中のコンビニで飲み物と食べ物を調達する。
釧路を出発して三時間あまり、日勝峠にさしかかった。 日没が過ぎ、辺りが暗くなるとともに霧が這い出してきた。

そして今、白い霧で視界ゼロの道を、又ノロノロと走る。 トラックの赤いテールランプが見えなくなってからもうかなり経つ。 千晶は身震いをした。
千歳まで辿り着けるかしら。 対向車線から車が来たら衝突してしまう……。やめればよかった、後悔が千晶を襲っていた。
千晶は車を路肩に停止させた。 これ以上は危険だ。 霧が晴れるのを待とう。 千晶は運転席に背を凭れ、大きく息を吐いた。 大輔もこんな目にあったのだろうか、そして千歳に着くことができず、この峠で……。
やめよう、考えるのはやめよう。 大輔は生きていると信じなくては。
ふと何かが動いたような気がして、千晶は窓の外を見た。霧の向こうに影が見える。
――人? まさか……。
千晶が見たのは紛れもなく人影だった。 ゆっくりとこちらに歩いてくる。 そこだけが霧が薄くなっているように感じられる。
「チーちゃん」 影が声を発した。
「チーちゃん」
「大輔さん?」 そんなことがある筈がない。 千晶の背に寒気が走った。
「チーちゃん、僕だよ」 聞きなれた声がする。 千晶は混乱していた。 理性はこの事態を否定していたが、現実には大輔の姿が見え、声も聞こえるのだ。 亡霊か幽霊か、全身に鳥肌が立つ。
「来ないで、あっちに行って!」 と言おうとしても、声が咽の奥で止まっている。
「チーちゃん。 僕だよ。 僕は君が北海道へ着いてからずっと見守ってきた。 僕の存在に気がついてもらいたくて……」
千晶は耳を両手で覆い目を閉じた。 大輔のはずがない。
「チーちゃん……。 僕を見つけて欲しい」 悲しげな声が響く。 「この崖の下に転落している僕の体を見つけて欲しい」
人影は車の窓に手をかけた。 千晶は叫び声を上げたが、その影が片手にカメラを持っているのに気づいた。
「そのカメラは……」
「君が贈ってくれたカメラだよ。 お父さんの形見のライカM3」
カメラに刻まれたLeicaの文字が見える。
「大輔さんなのね、本当に大輔さんなのね」 車のドアを開けようとした時、千晶の微かに残っていた理性が囁いた。
――ほんとに大輔さんかどうか確かめないと 。悪霊かも知れないのだから。 レンタカーの会社の人も言っていたじゃないの、悪霊が出るって。 でも、どうやって確かめよう? そうだわ、婚約指輪があったじゃない。
「大輔さんなら、この婚約指輪に刻んである日付を知っているはずよね」かすれ声で聞く。
「もちろんだよ。 2000・8・9。僕たちが……」
千晶は最後まで聞かずに車を急発進させた。
大輔ではない、大輔なら間違えるはずがない。 刻んである日付は結納のあった日なのだもの。 今年の六月の日付が……。
後ろを振り返らず、前だけを見つめて無我夢中で運転している間に、霧が薄くなってきた。 遠くに街の灯りがぼんやり見える。 霧もまもなく消えるだろう。
――助かった……。あれは何だったのかしら。
千晶の体から全身の力が抜けていった。
(四)
大輔が行方不明になって、三年が経った。 峠での出来事を千晶は誰にも話していない。 信じてもらえる話でもない。
千晶に見せたいものがあるから来て欲しいと恵子から電話があったのは先週のことだ。
朝から三十度を超える日が続いている東京は、コンクリートで固められた熱帯と化していた。
「ご無沙汰しています」 玄関で丁寧に頭を下げた千晶の指には、すでに婚約指輪はない。 大輔が行方不明になって丁度一年経った頃、指輪は外してしまった。
「実はね」千晶を客間に招じ入れながら、恵子は話し始めた。
「お父さんも秋で定年になるし、大輔も行方が分からないし、思い切って引っ越そうと思うの」
「引越しですか?」 大輔が万が一帰ってきたらどうするのだろう。
「ええ、智子がね、大阪に来るようにと何回も言ってくるの。 二世帯住宅を建てて一緒に住んだらどうかって」
「そのほうが心強いですよね。 でも、大輔さんが帰ってきたら……」
「大輔はどこかで生きているに違いないと信じているのよ。 でも、帰ってこないかもしれない。 もしこの家がなくなっても姉の家は覚えているでしょうから、そっちへ来ると思うの。お父さんもすっかり老け込んでしまったし、私も疲れたわ。千晶さんも、大輔のことは忘れて、新しい道を歩んでね」
千晶は何も言えなかった。 そういう時がいつか来るかもしれない。 今はまだ北海道での出来事が心の中に巣食っている。
「見せたいものってなんでしょう?」
「大輔の持ち物を整理していたら、色々出てきて……。 千晶さんとの思い出の品らしいものもあるのよ。 私たちが持っていてもなんだから、貴女に渡しておいたほうがいいかと思って」
思い出の品といっても、沢山あるわけではない。 誕生日のプレゼント、旅行へ行った時の土産品などだ。
「そうそう、こんな物もあったのよ。 私の荷物を整理していたとき出てきたんだけど」 恵子は指輪のケースを取り出した。
「指輪ですか?」
「結納のとき指輪のことでごたついていたの覚えているかしら」
「指輪が間に合わないかも知れないと仰っていましたね」
「大輔は知らなかったんだけど、実は私が作り変えていたの。 同じものですけど」
「作り変えた?」
「そうなの。大輔はそそっかしい子だったでしょう? 指輪に刻む日付を間違えているものだから、私、慌ててしまって。 急いで新しいものを注文したの。 お祝いのものだから直すのもどうかと思ってね。 返品するのも悪いし、どうしようかと思っている間に色々ごたごたしていて、すっかり忘れていたわ」 恵子は指輪を手のひらに乗せ、千晶に差し出した。
指輪の内側に数字が彫ってある。2000・8・9。
千晶は思い出した。 二人が始めてであったのは8月の9日だった。 結納は次の年の6月の8日。恵子は大輔が結納の年月日を間違えたと思ったのだ。
千晶はしばらくの間呆然と指輪を見つめていた。
大輔の言葉が耳に何度も木霊する。
『もちろんだよ。 2000・8・9。僕たちが……』