朝、羽田空港から飛行機に乗った。
どこかへ行く当てがあったわけではない。
四月初旬の東京は、まだ寒い日がある。
暖かいところがいい、美紀はそう思って福岡行きの便をとった。
空港でレンタカーを借り、国道三号線に出て南に下る。大宰府より九州自動車道に入った。
美紀はふと学生時代を思い出した。
――大宰府…歴史はあまり好きじゃなかったな。
熊本で高速道路からおりた。
――どこか泊まれるところはないかしら。
温泉に入りたい気もするが、女独りでは旅館は無理だろう。ビジネスホテルしかない。
美紀は駅近くのこじんまりしたホテルに車をとめた。
部屋は狭いが、こぎれいで値段もまあまあだ。
部屋にはいるとすぐシャワーを浴びた。
半日移動していると、それだけで埃まみれになった気がする。
ドライヤーで髪を乾かし、化粧をすると黒のパンツスーツに着替え、町に出た。
商店街の店をひやかしながら歩く。煙草の自動販売機を見つけ一箱買った。
通りかかった小さな公園のベンチで、煙草の封を切る。
――もう何年もやめていたのに……。
深く煙を吸い込むと、肺の奥まで染み渡るような気がする。
美紀は今日で三十五歳になった。誰もおめでとうと言ってくれる人のいない誕生日、それどころか覚えている人、いや知っている人さえいないだろう。
たった一人、祝ってくれた母は去年死んだ。
寂寥感が美紀を包んだ。
兄弟姉妹はいない上に、親戚とは疎遠、勤務先の会社でも親しいといえるほどの同僚はいない。
人並みに携帯電話を持っているものの、かかってくることは殆どない。
今、電源は切ってある。無断で休んだ会社からの連絡を嫌ってのことだ。
――もう、戻ることはないし……。
母が亡くなってしばらくしてからだろうか、美紀は生きることに熱意をなくしていた。
特に仲の良い母娘だったとは思わないが、母がいなくなってみて、その存在の重さに気づいた。
私のことを気にかけてくれる人は、もう誰もいない。
ボーイフレンドや恋人などというものには縁のない人生だった。
特別不器量という訳でもないし、自分では十人並みと思っている。
死にたいわけではないが、生きているのも面倒だ。
美紀はそんな状態にあった。
アパートの部屋を整理し、他人の目に触れては困るような物は捨て、管理人に手紙を残して出てきた。
煙草の火を、ペンチのそばにあった吸殻入れにこすり付けて消し、美紀は立ち上がった。
――おなかがすいたわ、ホテルへ戻って何か食べよう。
こんな時でも空腹を感じる自分を不思議に思った。
次の日の朝、早めにチェックアウトをして、美紀は車を東に向けた。幹線道路をはずれ、山へ向かう。
ナビのついていない車で、しかも地図も持っていない。
美紀は自分がどのあたりを走っているのか、わからなくなっていた。
山間の道はだんだん狭くなり、車一台通るのがやっとだ。
道の両脇には、まだ葉をつけていない木々が道路にまで枝を張り出して、トンネルを作っていた。
急に視界が開け、車の前方に、ゆったりと流れる川が姿を現した。
川岸の木には、もう若葉が芽吹き、対岸では菜の花の黄色が春を告げていた。
美紀は車を残し、川原まで降りていった。
水は青く、春の日を浴びて温かそうに見えた。
――この川なら私を迎えてくれるかもしれない。
美紀は感傷的になって、水際へと足を進めた。
そのとき、目の端に何かが映った。
誰かいる?
首を横にめぐらすと、川原に倒れている人の姿がある。
思わずそばへ駆け寄り、顔をのぞく。
「大丈夫ですか?」
五十歳前後の男性がうっすらと目を開けた。
何か言おうとするが、声が出ないようだ。
美紀は携帯電話の電源を入れた。
こんなところでも通じるかしら? 不安に思いながら119番を押した。
――意外と人里に近いのかもしれない。
救急車が到着するまでの間、美紀はぼんやりと考えていた。
――そうでなければ電話がつながるわけないわよね。
男は美紀の姿を確認するように、時々目を開ける。
「もうすぐ救急車が来ますから。頑張ってくださいね」
男の手を励ますように握りながら、美紀にはそんなことしか言えない。
どのくらいの時間が経ったのだろうか、遠くからサイレンの音が近づいてくる。
何人かの救急隊員が担架を持って降りてきた。
そのうちの一人が美紀へ歩いてくる。
「少し、事情を聞かせて欲しいんですが」
松木と名乗ったその隊員に美紀は知っている限りのことを話した。
男が運び込まれた救急車の後を、レンタカーでついていく。途中、男が乗ってきたと思われる白い車が道路際に止まっていた。
二十分ほど走ると、広い道へでた。
――さっきの道?
山奥深く入ったはずが、迂回してまた幹線道路へ出てきた、それだけのことだった。
美紀は自分に腹が立ってきた。間抜けな私……。
男が手当てを受けている間、待合室で所在無げに座っている美紀の横を、中年の女性が小走りで通り過ぎて行った。
――あれが奥さんかしら。 そうなら私はそろそろ解放してもらいたいわ。
美紀は男が手当てを受けている処置室へ向かった。
先ほどの女性が部屋の前の長椅子に座っている。美紀の姿をみると、急いで立ち上がり、会釈をした。
「通報してくださった方でしょうか」
「ええ、電話をしたのは私ですが」
「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げてよいやら……」女性は涙声で何回も頭を下げた。
「電話をしただけですから……。私はそろそろ失礼してもよいでしょうか、連絡先は救急隊員の方に伝えてありますので」
「ご迷惑をかけてすみません。ほんとうにありがとうございます」
その場を離れていく美紀の後方で医師らしい男の声がした。
「ご家族の方ですか。大丈夫、心配ありませんよ。さあ、中へ入ってください」
美紀は車に戻った。
疲れていた。
エンジンを掛けながら思案した。
――これからどうしよう。
自殺する気はなくなっていた。
――さっきの川へもう一度行ってみよう。
川岸の道路際に止めてあった白い車は消えていた。美紀はそこへ車を駐車させると、川原へと降りた。
腰を下ろして川を眺めた。
川面は光を浴びてキラキラと光っている。
静寂を破って、車のエンジン音が聞こえる。
誰か来たようだ。
美紀は座ったまま振り返った。
男が美紀の方へ歩いてくる。
不安を覚えて立ち上がり、携帯電話を握り締めた。
男は手にゴルフクラブを持っていた。
素振りの練習にでも来たのだろうか? そんな雰囲気ではないと感じて美紀は後ずさりをした。
無意識に携帯電話のボタンを押す。
後ろは川だ。
冷たい! 足を浸しはじめた水は思ったより冷たかった。
男がクラブを美紀に向かって振り下ろしたとき、川底に足をとられ、美紀は水の中に倒れた。
何かが頭にぶつかったような気がする……。
美紀はそのまま意識を失った。
気がついたのは救急車の中だった。
見覚えのある顔が美紀に笑いかけた。
「間に合ってよかった」
「松木…さん? さっきの?」
美紀は混乱していた。
「ええ、そうです。今は何も考えないで休んでください」
美紀は、自分でもわからない安心感に包まれて又眠りに落ちた。
事の顛末を知ったのは、かなり後のことだった。
川原に倒れていた男性の妻がその愛人と共謀して夫を殺そうとしていたこと、その愛人が美紀を襲ったこと等、担当の刑事が話してくれた。
「でも、何故私を殺そうとしたんでしょう……。 関係ないのに」
「計画を邪魔された仕返しなんでしょう。被害者には心臓の病があって、薬は手放せなかったようです。妻と愛人は薬を取り上げ、
川原に放置すればそのうち死ぬと思ったようです。貴女が来たことは計算外だった――あの川に来る人は殆どいませんからね。
被害者の妻に貴女のことを知らされた愛人が、車で後をつけていった、というわけです」
美紀は、涙ながらにお礼を言っていた女性の顔を思い出した。
「私、どうして助かったんですか?」
刑事は不思議そうに美紀を見た。
「自分で電話したんじゃありませんか? 救急隊員が駆けつけたとき、貴女が川の中に倒れるところだったと報告を受けています。
もう少し遅ければ溺死していたかもしれません」
自分の頭上に振り落とされるゴルフクラブが脳裏によみがえって、美紀は身震いをした。
「運が良かったですよ、川の水がクッションとなって衝撃を和らげてくれたんですから。さもなければ即死です」
ノックの音がしてドアが開いた。
私服に着替えた松木が立っていた。
「元気になりましたね、よかった」
あの事件は私にとって幸運だったのだわ。
後日、姓が松木と変わった美紀はそう考えている。
完