写真提供は千葉在住のHui-jie氏
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東京都下の、とある警察署で中年の警官が署長の前でうなだれていた。
「申し訳ありません」
「申し訳ないでは済まないだろう。拳銃を紛失するなどとは警官にあるまじき行為だ。君にはことの重大性が解かっているのかね」 署長の叱責が飛ぶ。
「はっ、まことに申し訳ありません」 警官は深々と頭を下げた。


          *          *          *          *


男は、まだ暗いうちに家を出た。鋭い刃物のような北風が頬をかすめる。
くたびれたダウンジャケットの襟を立て、その中に首を埋めた。
小さな工場に勤める男のアパートは、西東京の下町にある。新宿まで出て、北へ向かう私鉄電車に乗った。
この大都会で知人に遭遇する確率は殆どないと思うが、用心するに越した事はない。男は辺りを窺うように首を左右に回した。
列車の最後尾に足を踏み入れたとたん、男は一瞬息を止めた。すえたような匂いが、効き過ぎた暖房で増幅され、鼻の周りにまとわりつき離れようとしない。
車内をぐるりと見回す。
車両の中央付近に、もとは黒であったと思われる、シミだらけのコートを着たホームレスが長々と横になって、座席をほぼ一列占領している。
老けては見えるが五十を少々出たくらいだろう。
体は垢と汗とで異臭を放っている。
縮れた髪の毛は肩まで伸び、これまたべとべとのようだ。
いまにも床に届きそうに、だらしなく腕を垂らしている。
座席の下に捨ててあるビールの缶が、電車が揺れるたびにあちこちへ転がり、てすりやドアにぶつかって耳障りな音をたてていた。
その車両に他の乗客の姿はない。
他が混雑しない限り、ここに乗ってくる物好きはいないだろう。
男は少し離れた反対側の席を選んで座り、ホームレスを観察した。
こちらの体にまで異臭が移りそうな気もするが、嗅覚も鈍ってきたのか、さほど気にならなくなってきた。 「オレもああなっていたかもしれない」 男は横目でホームレスを見た。
ホームレスは熟睡しているようで、男が前を通り過ぎても涎を垂らしたまま鼾をかいている。男の視線を感じる筈もない。
車窓から見える空はようやく明るくなり始め、朝の到来を告げていた。
駅に停車するたびに、乗客がポツリポツリと乗ってくるのだが、一様に眉をしかめ、不愉快そうにホームレスを睨むように見ると、隣の車両に移動していった。
男にとっては都合のいい状況だ。
顔を見られないように、腕組みをしたまま自分の靴先が見えるまで頭をたらし、眠っているふりをしながら乗客をやりすごした。
窓から見える景色も、かなり変化している。
新宿の高層ビルを後にすると住宅街が広がり、今は樹木の生い茂る古い町並みを走行中だ。
やがて男が目指す駅に到着した。
ホームレスは相変わらずの格好で寝ている。
車掌の姿を一度も見なかった事に男は気付いた。
検札をさぼっているのか、人手が足りないのか、検札の時間ではないのか。どちらにしても男にとってありがたいことであるには違いない。
改札口を出ると真っ直ぐに目的地に向かった。
男は振り返りたい衝動を抑えた。
キョロキョロすれば返って不審に思われる。早朝とはいえ、出勤するサラリーマンが駅へ向かう時間帯だ。


三年前まで、この町で男は妻と小さな雑貨店を営んでいた。
長引く不景気で経営は苦しかったが、子供のいない生活では、それでも食べるのに困ることはなかった。
しかし男の妻は違った。つつましく生きることのできない性質だった。
ある冬の朝、男がまだ寝ている間に、妻は通帳、印鑑、キャッシュカード、売り上げ金を全て持ち出し、家を出た。
妻が出奔した理由を詮索する暇もなく、男は金策に追われた。
不景気の時代、男に金を借りる力はない。
店も人手に渡り、男に残されたものは何もなかった。
妻に裏切られ、全てを失った男の心を氷が包みはじめた。
氷の周りを又氷が覆う、何層にも何層にも……。
所持金も殆どなく、家もなく、北風の吹く町をさまよい歩く男の目にとまったのは「ハーバーナイト」という喫茶店の看板だった。
軒下に据え付けられた二つのランプが柔らかい光で看板を照らしていた。
男はふらふらとその喫茶店に足を踏み入れた。
体の芯から冷え切っていた。
暖かい飲み物が欲しかった。
「コーヒーを」 男は店の奥の席に座って注文した。男のほかに客の姿はない。
「もうすぐ閉店なんですけど、かまいませんか?」 カウンターの向こうで、この店のママらしい中年の女性が申し訳なさそうな声を出した。
男は軽くうなずいた。
もとより、長居をするつもりはない。体が温まれば出て行くつもりだ。
コーヒーのカップを両手で包みこむように持つ。
かじかんだ手に血行が戻ってくるようだ。
空になっても、まだ温もりの残るカップを置くのが惜しくて、しばらく手で玩んでいた。
急にドアが開き、紺色のオーバーを着た高校生くらいの少女が飛び込んできた。
「うわー、中は暖かいわー」
店のママに眼で注意され、少女は男に気がついたようだ。
「まだ、お客さんいたんだ」
「もうすぐ閉めるから待っててね」 中年の女性は声を潜めて答えた。
どうやら親子らしいと男は推測した。伝票を持って立ち上がると入り口近くのレジへ向かった。
ポケットに手をつっこみ、小銭をまさぐる。コーヒー代くらいはあるだろう。
ガチャン、チーンと音がしてレジが開いた。
目の前に金がある!
無意識に男は手を伸ばし、紙幣を掴んだ。
店のママは、不意をつかれた様子で声も出ない。
「どろぼー」 と叫びながら外へ出ようとしたのは少女だった。
男は少女のコートの襟首を掴み、引き倒した。床へ倒れた少女は意識を失ったようだ。
レジの金をポケットへねじりこむと、カウンターの中においてあったナイフを握り締め、男はママへ襲いかかった。
「こいつらには顔を見られている」 男の頭の中はそのことでいっぱいだった。
後の記憶は定かではない。
店から出ると、夢中で走った。
どのくらい走っただろうか、男は息を切らして足をとめた。
道路わきには空き地が広がっている。
バブルがはじけて以来、雑草が生い茂り荒れているのを男は知っていた。
手に持ったナイフを空き地の奥に向かって投げ入れた。
男が自分のしでかしたことを知ったのは次の日の夕刊だった。
『喫茶店で強盗殺人―母娘殺される―』
――殺人? 死んだ? 母娘?
男の凍えた心は、それでも微動だにしなかった。


あれから三年が経った。
じっと息を潜めて生きている男の心は、幾層にも氷で覆われ、氷柱のようになっていた。
投げ捨てたナイフの件は男の心に針となって刺さっていた。
毎日、新聞を点検するのが日課となっていたが、凶器となったナイフが見つかったという記事はない。
だが、いつかは発見される。
男は決心した。
そろそろほとぼりも冷めた頃だ。あのナイフをもっと安全に始末してこよう。
そして今、男はその空き地の前に立っている。
一面に生えている雑草は腰高まで伸び、枯れた茎は体に触れると痛いほどだ。
軍手をはめ、枯れ草を掻き分け、奥に踏み入る。腰をかがめ、記憶をたどりながらナイフを探した。
――あった!
男は半分土の中に埋もれているナイフを発見した。
拾い上げると刃の部分には錆てぼろぼろだ。
ほっとした男の耳に、枯れ草を踏みしめる音が聞こえた。
「だれだ?」ナイフを手にしたまま、振り返った。
異臭を放ち、染みだらけのコートがこちらへ向かってくる。
「さっきのホームレス……」
ホームレスはにやっと笑った。
「やっと尻尾を出したな」
「お前は……」 男には事態が飲み込めなかった。
「俺の家族は貴様に殺された。貴様をしとめるこの日をずっと待っていた」
「オレが殺った証拠は……」
「今、その手の中にあるだろう。貴様は最初から容疑者だった。だが決定的な証拠がない。被害者の家族として、警官として俺は歯がゆくて仕方なかった。何故捕まえられないのか、と」
男はそろそろと体を移動させた。ホームレスの隙を見て、飛び掛るつもりだ。
「動くな!」
ホームレスはコートから拳銃を取り出し、男の胸に照準をあわせた。
「拳銃を紛失したふりをして、警察を辞めた甲斐があったというものだ。この三年間、復讐するためにずっと貴様の後を追い続けていた。俺の心はあの日から凍ったままだ。貴様を殺すのに何の呵責も感じない」
拳銃が火を噴き、弾丸が男の足元で炸裂した。
「玩具じゃない」ホームレスは薄笑いを浮かべた。
「助けてくれ、殺さないでくれ……」
「俺の家族は、何も言えないまま殺された」
ホームレスはもう一発拳銃を発射した。弾は男の肩をかすめた。
遠くでパトカーのサイレンが響いている。
「俺が呼んだパトカーだ。貴様をこの手で殺してやりたかった。だが、妻も娘も俺が殺人者になることは望まないだろう」
男は呆然とホームレスを見つめていた。

                              完





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