写真提供は川崎市在住のsernef氏
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 前方に東名東京インター料金所の明かりが見えた。車の時計は9:00と表示されている。慎一は速度を落とし、空いているゲートへと車を向けた。 後部座席では妻の仁美と息子の昇が熟睡していた。 遊びつかれたのだろう。 ルームミラー越しに二人を見る慎一の顔に満足げな笑みが浮かんだ。 まずまずの家庭サービスだったな。
 そのとき右隣ゲートのETCの信号が急に赤に変わった。 通過しようとした車は慌てたのか、急に左にハンドルを切った。
 慎一の記憶にあるのは、側面から突進してくるヘッドライトの眩しい光だけだった。


「久しぶりだね」
 その太い樹はゆっくりと息を吐きながら、慎一に話しかけた。
「この前は、確か十年以上前だったな」
「そうですね、十五歳の時でしたから、もう十六年になります」
「そうか、もう十六年になるか。はやいものだ」
 慎一は微笑んだ。
「僕にとっては長い十六年でした。でも安心してください、人並みの生活を送っています」
 樹は枝をすこし揺すって、葉を擦りあわせた。
「それはよかった。あの頃のお前さんは危ない感じがしたからね」
「危ない? あの時もそう言ってましたね」
「ああ、色々な意味の危なっかしさを持っていた」


 十五年前までの慎一の生活は、子供にとっては辛いものだった。 両親の不仲は子供に不安な心を植え付ける。泣き叫ぶ母親の声と、腕組みをして睨んでいる父親の顔は、今でも忘れない。
あれは何歳の頃だっただろうか、小学校へ入る前だったと思う。 母に手を引かれて暗い道を歩いていた。 そろそろ夏も終わりのころだった。母は慎一の小さな手をぐっと握り締め、ややもすれば遅れがちになる慎一を引っ張るように歩いていた。
「母ちゃん、いたいよ!」 と訴えても母の耳には届かないようだ。痛いのは腕だけではなかった。 去年から履いている運動靴は小さくなってしまって、踵をふんで歩いている。 そのはみ出している部分が地面にあたって痛くなっていた。 買えなかったわけではない。 母は息子の靴にまで気が回らなかったのだろうと、今では思う。
 どれだけ歩いただろうか、突然母は道端にしゃがみこみ、泣き出した。 最初はむせび泣くように、そしてだんだんと声を上げて。
「母ちゃん、母ちゃん」暗がりの中で慎一は母の肩をさすっていたように思う。 病気をしたときにいつも母がしてくれていたように……。 母の薄いブラウスの布の感触が手に残った。
 記憶はそこで途切れている。


 小学校に入ると慎一はひとりで外で遊んでいることが多くなった。 この樹を見つけたのもその時だ。慎一の住んでいた町は、東京郊外とはいえ、その頃はまだ武蔵野の名残があり、町の外は雑木林や森で囲まれていた。 子供が遊ぶ場所にはことかかない。 慎一がその町を出た十六年前には、すでに開発の手が伸びて、林や森は住宅地へと変貌してしまったが。
 その樹は白い息を吐き出していた。
 慎一は足をとめて樹を凝視した。
「生きてるの?」
「もちろんだ。木はみんな生きている」 樹は太い声で答えた。
「息をしている木なんてはじめてみた」 慎一は樹のそばへ近づくと幹にさわった。
「あったかい」顔を樹に押し付けた。
 樹はもう一度大きく息をした。樹のまわりを白い靄がたちのぼっている。
「声も出せるんだ」 慎一は感心していた。
「ぼく、はじめて木の声聞いたよ」
樹は「そうかい?」 と言って微かに葉を震わせた。慎一には樹が笑っているように思えた。


 学校の帰りに樹に会うのが、慎一の日課となった。 学校であったこと、両親の仲の悪いらしいこと、いじめっこがいることなど、樹にもたれながら、話したり、泣いたりするのが常だった。 樹は声を出して答えることはあまりなかったが、肯くように葉を時々擦り合わせた。
 慎一があまりにも泣くときは、樹は白い息を出し、まるで抱くように慎一を包んでいた。
「ぼくのじいちゃんになってね。 やくそくだよ」慎一はしゃくりをあげながら、樹に頼んだ。
 現実の祖父母を知らない慎一は、「じいちゃん」というものに憧れを抱いていた。じいちゃんやばあちゃんは優しくて、いろんなものや美味しいものをくれる――ともだちの話からそんなイメージを抱いていた。 ぼくにもやさしいじいちゃんができた。 みんなとおんなじだ。

 母が自殺をしたのは、十三歳のときだった。 雑木林の中で、首をつっていたそうだ。棺の中に入った母を見て、父は泣いていた。 「殺したのは父ちゃんじゃないか!」 憎しみで一杯になり、思わず叫んだ慎一は、次の瞬間、父の拳で壁際まで飛ばされた。口の中で金気くさい血の味がした。家を飛び出すと、じいちゃんのいるところまで走った。 誰かが後ろから叫んでいるようだったが、振り返らなかった。 じいちゃんの樹にたどり着き、幹にもたれると、慎一の目から涙がこぼれた。
「母ちゃん、母ちゃん……」声を出して泣いた。大声で泣いた。
 気がつくと、慎一は白い息に抱かれて、樹の枝に座っていた。
「そろそろ家にお帰り」太い声がした。
「帰りたくない……」
「帰りたくなくても、帰らなければならないときもある」 じいちゃんの樹はそっと慎一を地面へおろした。
「何処へ行ってたんだ」家に入ると棺の前に父はいた。もう泣いてはいなかったが、顔のしわが増えたように慎一は感じた。
 黙って父の隣に座った。母は薄化粧をして、生きているときよりきれいに見えた。
「葬儀社の人がしてくれたんだ」父が慎一の気持ちを察するように呟いた。


 中学を卒業したら、家を出ようと決心してから、慎一は父と衝突することが少なくなった 。母が死んでから、父も往年の激しさはなく、気が抜けているようだ。
「母さんは病気だったんだよ」父があるときぽつりともらした。
「病気? 何の病気だったの?」
「気の病かな……」 父はそれっきり母の病気のことは口にしなかったが、通夜のとき、耳に入ってきた言葉を慎一は思い出した。
『華絵さんにはつらかったんだねぇ』
『好きで一緒になりなすったのに』
『生活が違いすぎたのかね』
『精神的にもかなり参っていたと聞いたよ』
『華絵さんの両親は?』
『連絡はしたようだが……』
自分にも祖父母がいるらしいと知ったのはその時だったが、会いたいとは思わなかった。 ぼくにはじいちゃんの樹がある。

母が死んだ雑木林が造成地へと変わっていく様子を、慎一は毎日ながめていた。 やがて分譲中の赤い幟があちこちに立てられ、色とりどりの家が建築されていった。じいちゃんの樹があるところまで開発されないだろうか。 慎一は心配でたまらなかった。
「じいちゃんは大丈夫かな」
樹は答えた。
「いや、そろそろ私の寿命も尽きるときが来たようだ」
「じいちゃんはオレが守る!」
母が死んだ後、「ぼく」から「オレ」に変えた慎一は強い口調で言った。
「オレが守ってみせる!」
 やがてブルドーザーが森を侵食し始めた。 慎一はまだ大丈夫だろうかと怯えに似た気持ちを抱きながら、毎日学校帰りにじいちゃんの樹まで足を伸ばした。
 その日は思いのほか早くやってきた。ブルドーザーがじいちゃんの樹の近くを蹂躙していた。じいちゃんの息が見えない。ただひっそりと佇んでいるように見えた。
「だめだ! だめだ! 伐っちゃだめだ!」
 慎一は叫びながら木に登った。自分が体を張って守るつもりだった。
「危ないから降りなさい」 責任者らしい男が下から大声を出した。
「降りなさい。降りろ!」
「この樹を切るな! オレにさわるな!」 慎一は又叫んだ。
「わけの分からんことをいう子だ。 おい、引き摺り下ろせ」責任者は工事現場の何人かに声をかけた。
 慎一は樹の上へ上へと登っていった。 もう下は見えない。 樹のてっぺんから見る町は、大きく広がって、林や森は姿を消していた。 遥か遠くに霞んだ山々が見える。
遠くからサイレンの音が聞こえた。 パトカーと消防自動車らしい。はしご車からレスキュー隊員が登ってくる。
 オレを捕まえに来る! 慎一はとっさに空に身を躍らせた。木の下に集まった群衆から悲鳴があがった。
その時、樹が白い息を吐き出し、慎一の体を包んだ。
 その後のことは覚えていない。 気がついたときは家にいて、父が難しい顔で慎一を眺めていた。

 じいちゃんの樹は、新しくできる住宅街の真ん中にシンボルツリーとして残されることになったと、あとから慎一は知らされた。 白い息を見た人々が、保存のための請願書を市に出したのだという。造成地の周りは塀で囲われ、関係者以外立ち入り禁止と書かれた。
中学を卒業すると家を出てすぐ働き始めた慎一は、それからじいちゃんの樹には会っていない。 夜間高校にかよいながら、大検をうけ、公立大学に入学した慎一は、やがて家庭を持ち、子供が産まれ、そして事故にあった。


「じいちゃん、伐られなかったんですね。よかった」
「お前さんのおかげだ」
「じいちゃんが僕を助けてくれたんですよ」
「あの後、なぜか神木とあがめられてな、周りの木は切られてしまったが、ワシだけは残されたんだよ。 仲間がいなくなって寂しいことだ。 息が詰まるし、いずれにしろもう長くはないだろう」じいちゃんの樹は葉を少し揺らした。「あと百年生きればいいほうだ」
「だいじょうぶ、じいちゃんなら後二百年は生きると思いますよ」慎一は微笑んだ。
「僕は事故にあった筈なんですけど、ここにいるということは、死んだのかな……」
ふと、気づいて慎一は辺りを見回した。 確かヘッドライトの光が目に飛び込んで……。
「お前さんは、今、重体だ。体は病院のベッドにある」樹は低い声で告げた。
「重体……。 妻は? 息子は? どうなったんです?」 慎一の心臓の鼓動が速くなった。
「子供は軽症だ」
「妻は? 妻は無事なんですか?」
 それには答えず、樹は慎一に問いかけた。
「もし、わしがお前さんか、お前さんの妻か、どちらか一人だけを助けられると言ったら、どうする? 自分を選ぶか、妻を選ぶか」
「考えるまでもありません」 慎一は不満そうに言った。
「当然、妻です。 僕にとって、家族は宝なのだから」
「そうだな。 聞くまでもなかった。 さて、そろそろ病院のベッドにお前さんを返す時間だが、言っておきたいことがある。 お前さんの父親のことだ。 父親の気持ちを分かる歳になったはずだ。 そろそろ和解しても良い頃だ」
「親父がお袋も僕も大事にしていてくれたことを、今ならわかります」
「父親はずっとお前さんを見守っている」
「人生の節目のとき、何回も親父が援助してくれていたことは知っていました。 でも、なんとなく照れくさくて、お礼もいえなかった……」
「そうか、わかっていればいい。さあ、そろそろ時間だ。病院へ戻りなさい」
 慎一の目に強い光があたり、辺りは真っ白になった。



「パパー。パパー」
 幼い息子が遠くから呼んでいる。
「パパー」
「あなた、聞こえる?」
妻の声だ。
慎一はゆっくりと瞼を開けた。 ベッドのそばの仁美と昇の顔がぼんやりと目に入ってきた。
「ひ・と・み……。の・ぼ・る……」声を出したつもりが、動いたのは唇だけのようだ。
「あなた、気がついたのね」妻の目は涙で潤んでいる。
 妻の後ろに立っている人影に、慎一は気がついた。 懐かしい顔だ。 驚きはなかった。 父親がいるのを知っていたような気がする。
「お・や・じ」
 父の目も涙で光っているようだ。 慎一は母の通夜の日を思い出した。 親父の涙を見るのは二回目だな……。
「慎一はどうやら助かったようだ。 仁美さん、あなたの祈りが通じたんですよ」父が掠れた声で言っている。
「いいえ、お父さんの強い願いが神様を動かしたんです」仁美の頬には涙の跡が何筋も引かれていた。
 仁美はいつ親父と出会ったのだろう。 結婚式はしなかったし、会う機会はなかったはずだ……。 慎一の思考はあちこちに飛ぶ。
 そのとき、白衣の見知らぬ男が口を挟んだ。
「本人の生命力が、強かったんですよ。 もう、大丈夫です。 患者さんを興奮させないようにしてください」


 三ヶ月ほどして、慎一は退院した。 後部座席に乗っていた仁美と昇は、奇跡的に軽症で済んだようだ。 白い煙が二人を包んでいたと、あとから救急隊員に聞かされたと仁美は言っている。
 父とのわだかまりも消え、平和な日々が戻ってきた。
 元気になったら、じいちゃんの樹に会いに行って、お礼を言わなければ、と慎一は思う。
「じいちゃん、僕と僕の宝を助けてくれて感謝しています。 じいちゃんに試されたのは、ちょっと不満だけど、そのくらいは許してあげますよ」
 じいちゃんの樹が葉を擦らせて、笑ったような気がした。



                                             完





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