季節も寒くなって、そろそろカンタの予防接種の時期になった。この間病気をしたから、検診もかねて岩本先生の所へ連れて行く事になった。もう、ぼく一人でも充分だ。
「由美と一緒じゃなくて平気?」と母さんに聞かれたけど、この前の病気の時だってぼくが一人で頑張ったんだからね。
動物病院のドアを開けると、中から飛び出してきた順一君とぶつかりそうになった。ぼくはよけようとして壁にへばりついた。順一君はけわしい顔をしている。ぼくの横を駆け抜けて、すぐ見えなくなった。ぼくがいることさえ気がつかないようだ。
「大丈夫かい? ぶつからなかったか?」
岩本先生が診療室から顔を出した。
「雄二のお兄さん、どうかしたの?」
「うん、まあね」
先生は言葉をにごした。
「それより、今日はどうしたんだい?」
「そろそろ予防接種の時期だし、この間病気したから検診もお願いします」
母さんに言われたようにぼくは復唱した。
「そうだね、そんな時期だったね」
カルテを見ながら先生はうなずいている。
ぼくと先生でカンタを診察台にのせた。前よりかなり重く感じた。体重計をみるとかなり増えている。もう23キロだ。成犬で29キロから34キロだから、少し太り過ぎかも知れない。
「もう少し運動させた方がいいね」
先生はガラスの体温計をカンタのお尻に入れて体温を計り、おなかを診察した。顕微鏡で検査をしたあと断言した。 「元気そうだから、注射をしても大丈夫だ」
(おい、カンタ、注射だぞ。泣くなよ)ぼくは心の中で励ました。
先生はカンタの首のあたりの皮を持ち上げると素早く針をさした。カンタは何ごともなかったかのように座っている。
「注射、痛くないの?」
実はぼくもこの間注射を打ったばかりだ。破傷風とジフテリアのニ種混合という予防接種だ。ほんの少しの量だったけれど、やたら痛かった。注射のあとも少し腫れたし。この年になっても、病院で逃げ回る子もいるそうだ。さすがにぼくは恥ずかしくてそんな事はできない。
「犬は痛くないようだよ。人間とは違うからね。春になったら狂犬病の予防注射があるけど、それまでは来なくていいよ」
カンタが全快したのはうれしいけれど、ここへ来れなくなるのはちょっと残念だ。

        
家へもどると、母さんが珍しくテレビを見ていた。
「お帰り、予防注射はすんだ?」
「うん、来年の春まで来なくても良いってさ」
ぼくは母さんの横に座って一緒にテレビを見始めた。
「何の番組見てるの?」 「置き去りにされた犬の話を放送しているから、見てるのよ。ひどい人がいるわね」
テレビの画面には白い犬が遠くに写っていた。
そこは周囲を畑でかこまれた国道の交差点で、交通量もかなり多そうだ。
レポーターが「今、姿が見えました」と実況している。
白い犬はしばらくカメラの方を見ていたようだが、身をひるがえすと、畑の向こうに走って消えた。
「いったい、どうしたの?」
ぼくの問いに母さんはそれまでの事情を話してくれた。

あの近くに住んでいる人の話によると、ある日赤い車がやってきて、中年の男の人があの白い犬と一緒に降りてきた。しばらく散歩をしていたが、やがて犬に『まて』と命令して、自分は車で走り去ってしまった。それから姿をみかけない。
犬はそのまま動かずにそこに座っている。人がそばに寄ると逃げるが、また舞い戻って来る。もう、二週間にもなるそうだ。
その話をテレビ局の人が聞いて、取材に来たらしい。
「『まて』と言われた犬は、忠実にずっとあそこで待っているんだよ」とその人は説明している。
「私もかわいそうだと思って、食べ物を持って行くんだが、決して食べようとしないんだね。そうしつけられているんだな。近付くとさっと逃げるから、つかまえる事も出来ない。家に連れて行ってもいいと思ってるんだがね」
畑の向こうに又白い犬が見えた。
「すっかりやせ細ってしまったね。最初は毛並もつやつやしていて、きれいな犬だったんだが。飼い主を信じて待っているんだ」
レポーターの問いに答えて、その人は話を続けた。
「ひどい飼い主もいるもんだ。もうニ週間もろくなものを食べていないんじゃないかな。
賢い犬で、保健所で捕まえに来てもするりと逃げてしまう。たぶん夜は橋の下で雨露をしのいでいるんだろう」
「飼い主の方、この番組を見ていましたら犬を迎えに来て下さい。白い犬はあなたをずっと待っています」とのレポーターの言葉で番組はしめくくられた。

「なぜ置き去りにしたんだろう」
ぼくの問いに母さんは少し考えていた。
「事情があるんでしょう、いろいろ」
「どんな?」
「そうね、例えば飼い主が病気になって世話が出来ないとか、引っ越しする事になって、もう飼えなくなったとか」
「そんなのひどいよ!」
「まだ日本では、アパートやマンションで動物は飼えないからね」
「それで捨てていっちゃうの? 家族なのに?」
「そう言う人も残念ながらいるって言う事よ」
「飼ってくれる人探せばいいのに」
「大きくなってしまった犬を引き取ってくれる人は中々いないわ。あの犬の飼い主だって行き先を探したと思うけどね。たぶん努力はしたんでしょう」
「あの犬どうなるのかな……」
飼い主は現われるだろうか。
「保健所が捕まえてくれれば、あの犬の場合は、さっきの人が引き取ってくれるかも知れないわね。飼いたいって話してたから」
「その前に飢え死にしないかな、あんなに痩せていて」
「食べ物は何とかなっているのでしょう。充分じゃなくてもね。でも人間不信になってしまうわ、あんなひどいめに合うと」
母さんはかなり怒っていた。その口調でぼくにはわかる。何と言っても長年のつきあいだもの。






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