美緒は心が沈んでいた。頼みの亮は信じてくれそうもない。亮から事情を聞いた比呂美も心配している。これから、湖に行くことも止められるだろう。そうだ、朝早く一人で湖に行ってみよう。もう一度母の記憶を辿りたい。
次の日の早朝、美緒は徒歩で湖に向かった。自転車の音で誰かに気づかれては困る。
早朝の湖には、霧がうっすらとかかり、対岸の木々もぼんやりとしている。昇りつつある太陽の光が、徐々に霧を追い払い、湖面がキラキラと輝き始めた。しばらくその光景を息をつめて眺めていた。美しく、不思議な湖。いつまでもここにいたい。
湖畔に膝をついて手を入れる。母の記憶が手から伝わってくる。母が最後に見たものを、美緒は懸命にすくい上げようとしていた。なにが起こったの、お母様。教えて。美緒に教えて。
やがて母の見たものが手を伝わってきた。思いがけない真実が美緒に衝撃を与えた。ほんとなの? と思った瞬間、頭に衝撃を受け、美緒は湖に倒れた。あお向けにされ、首を押さえられて水の中に浸された美緒の目は、はっきりと襲撃者の顔を捉えていた。
* * * *
美緒の言葉を信じてやればよかったと、亮は今でも後悔している。そうすれば美緒が一人で湖に行くことはなかったはずだ。自分が殺したようなものだ。何故、湖の傍で水死していたのか、結局わからなかった。警察は事故と判断した。
「思春期の頃は、脳貧血をおこしてばったり倒れることがあるんですよ。学校の朝礼でも、よくあることです。場所が悪かったんですな。後頭部の傷は倒れたときに石にあたったのでしょう」
母の次に娘も? との思いが残ったが、結局家族もそれを受け入れた。二人の不幸を経験した祖父は、別荘を手放そうとしたが、創と亮とが反対をした。創は「二人が死んだ傍にいつもいてやりたい」と祖父に訴えた。
あれから十二年。疑問は徐々に消えて行った。
美緒の七回忌が済んだ後、祖父の岳人は犬を飼った。ブラッキーだ。治安が以前より悪くなったと判断したのだろう。番犬として最適だと考えたのだ。特に、比呂美が一人で滞在する場合を心配したのだと思うが、肝心の比呂美は犬が嫌いだ。しかし、ここは祖父の別荘なのだから逆らうことはできない。結局世話は亮がすることになった。
犬は本能で犬嫌いを察知する。ブラッキーは決して比呂美になつこうとしなかった。
深夜、そろそろ亮も寝ようかと電気を消そうとしたとき、そっとノックする音が聞こえた。亮は不審に思いながらも静かにドアを開けた。
「晶!」
「シー」晶は人差し指を口に当てた。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「話したいことがあるの」
「あきれたね」首を振りながらも、晶を招じ入れた。
「僕は従兄弟だけど男だよ。夜中に男の部屋に入ってくるものじゃない」
「いいじゃない、そんなこと。それより聞いてもらいたいことがあるんだ」
晶は部屋にある椅子に勝手に座ると話し始めた。
「比呂美おば様には笑われそうで、詳しく話さなかったんだけど、あの湖の水は不思議な力を持ってるんだ。亮ちゃんは信じないかもしれないね。でも、ほんとなんだよ」
「どういう風に不思議なんだ?」
「湖に手をいれると、人の記憶が伝わってくるような気がする。声が聞こえるんじゃないよ。体に染み込んで来るというか」
「テレパスみたいなもんかな」
「うん。そうだね。それが、曜子おば様か美緒ちゃんの記憶みたいなんだ」
「母と美緒……」
「はっきりしていないんだけど、しきりに伝わって来るんだ。きっと何があったか知らせたいんだと思う。だから又湖に行きたいの」
「やめておけ」亮は即座に言った。
「危険だ」
美緒はびっくりしたように亮を見た。
「危険? なんで?」
「そんな気がするんだ。僕が調べてみるから、美緒はもう首を突っ込むな」
「だって、亮ちゃんは水の声が聞こえないんでしょう? 無理だよ」
亮は黙った。確かにそうだ。理由は分からないが、美緒と晶にだけ伝わるらしい。
「じゃ、約束してくれ。湖には必ず僕と一緒に行くこと。ひとりで行動しては絶対だめだぞ」
「うん、わかった。あとで思い出したことを紙に書いておくね」そう言い残して、晶はするりと部屋を出て行った。
もし、母と美緒が殺されたとして、犯人は通り魔か? 母が死んだのは二十二年前、美緒は十二年前。通り魔がその間うろうろしているとも思えない。
通り魔でなければ知り合いと言うことになる。母と美緒の両方に恨みを持つ者はいないだろう。美緒が殺された理由は、真相を知ったためと考えれば筋が通る。
「ほんとうなの。私にはわかるの」と訴えていた声が耳に残っている。
考えれば考えるほど、犯人は見えてこない。祖父か父が……まさか、背中に戦慄が走った。そんなことはあるはずがない。あって欲しくない。比呂美はどうだろう。しかし、母が死んだとき、比呂美はまだ家族ではなかった。同じ別荘地に住んでいるという点以外、共通項はない。その後、比呂美は結婚しているし、母を殺す理由は何もない。考えは堂々巡りを始めた。
死んだ時、十四歳だった美緒。晶も十四だ。十四と言う年齢が何か関係あるのか。ベッドに転がって考えているうちに眠ってしまったらしい。
窓辺でオオルリのさえずりが聞こえる。亮は目を開けた。家の傍までオオルリが来るなんて珍しいことだ。ベッドサイドの時計を見る。午前五時を回ったところだ。起き上がって窓の外を見ると、空も白み始めている。
黒く大きな犬が家の前の通りを全速力で走っていくのが見えた。
「ブラッキー?」
庭で放し飼いにしていても、利口なブラッキーは家の外に出たことはない。胸騒ぎがして慌てて着替えると、晶の部屋を覗いた。ベッドはからだった。
「あいつ……」
慌てて車のエンジンを掛ける。焦っている時は、何でもないことにも手間取る。エンジンは何回か空回りした。
湖の横にある道路に車を停め、上から湖畔を眺める。オオルリのさえずりが激しい。いぶかしく思って新しく出来た東屋に目を移すと、人影が見えた。
晶か、いやもうひとりいる。手に光るものをが見える。亮は慌てて湖へと駆け下りた。東屋から晶が湖へ落ちるのがスローモーション映画のように目に映った。
「晶!」
その時、黒い大きな塊が東屋に残った一人に飛び掛った。光るものは弧を描いて湖に落下した。鋭い悲鳴が聞こえ、人が床に転がるのが見えた。次に黒い塊は水の中に飛び込んだ。激しい水しぶきがあがる。
「ブラッキー」
東屋へ急ぐ。うずくまって呻いていたのは比呂美だった。足と腕に歯型がくっきりと残り、血も滲んでいる。肉も少し食いちぎらたのか、飛び散った血が東屋を汚していた。
「比呂美さん」呆然と比呂美の顔を見つめた。
憎悪の眼差しが亮に向けられた。
やがてブラッキーが晶の襟を加えて、湖畔まで泳ぎついた。晶は多少水を飲んでいるらしいが、どうやら大丈夫だ。
携帯で救急車と警察を呼ぶ。それから静かな湖畔は、喧騒に包まれることになった。
病院から帰宅を許された晶を乗せて、亮は別荘へと向かった。亮の父と、晶の父母が待っているはずだ。
「全く無茶するんだから。あれだけ単独行動はするなと言ったのに」
「ごめんなさい」晶は珍しくしおらしい。
「部屋へ帰ってから、色々と思い出したことを書いていたら、気になったことがあってどうしても確かめたかったんだ」
「書いていたこと? そんなもの部屋に見当たらなかったと思う」亮は首を傾げた。
「テーブルの上に置いたよ。後で亮ちゃんが見るかと思って」
「比呂美さんが見たんじゃないかなぁ、それ。で、慌てて晶の後を追いかけた」
「おば様が犯人だったなんて、信じられない」晶の目が潤んできた。
「僕だって信じられないよ。何故母を殺さなくてはならなかったか。僕はどうしても知りたい」
「ブラッキーは? どこにいるの?」
「心配しなくても家で待ってる。人間に噛み付いた犬は処分されるのが普通だが、今回は事情が事情だから」
「当たり前だよ。あたしを助けてくれたブラッキーを処分するなんて、絶対許さない」
山々が紅葉で彩られる頃、連休を利用して亮は晶を湖へ連れていった。亮の父、創は心痛で体調を崩し入院中だ。ブラッキーは亮と一緒に、別荘と東京の家とを行き来している。亮のそばを離れることはない。
事件にはなるべく触れないようにと言うカウンセラーの忠告に従って、詳しい事情はまだ晶から聞いていない。
比呂美が母を殺した理由も、亮には納得できなかった。
「曜子が倒れるのをみて、いいチャンスだから殺してやりたいと思った。幸せそうな曜子を見ているといらいらする」と供述しているという。たったそれだけの理由でと亮は怒りを覚えた。いずれにしろ時効が成立しているので、裁かれるのは晶の事件が主になるだろう。美緒の事件は立件が難しいそうだ。弁護士は心神耗弱を主張している。
この湖へ来ることも躊躇したのだが、晶の強い希望でやってきた。以前のように晶は湖の畔に跪き、手を水に入れた。
「亮ちゃん……」
「どうした? また何かあったか?」
「ううん。あたし何も感じなくなっちゃったみたい。水は綺麗で冷たいだけ」
亮はふと思いついて晶に尋ねた。
「晶の誕生日はいつだった?」
「八月三十日に十五歳になったよ」
「そうか、きっとそのせいだな」
「なにが?」
「きっと水の記憶を掬い取れるのは十四歳までなんだよ」
「何で分かるのさ」晶は口を尖らした。
「美緒が十四歳だったから。十四歳の美緒が同じ年になった従妹の晶に伝えたかったんじゃないかな」
「あたしは違うと思う。犯人が捕まったからだよ」
「うーん、そうかもしれない。どっちにしても晶が普通になってよかった。お前もそうおもうだろう?」
ブラッキーは亮を見上げ、尻尾を振った。
了