写真提供は諏訪市在住のmimusan氏
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 十四歳の夏休み、美緒は二歳違いの兄、亮と並んで、湖へ向かって自転車をこいでいた。亮の荷台には母が好きだったポピーの花束が積んである。アマポーラや虞美人草の名で親しまれているこの花を、母はこよなく愛していたと父から聞いていた。花言葉は慰め、感謝。
 昨年、父は、近所の別荘によく来ていた比呂美と再婚した。母の十三回忌を一応の節目としたのだろう。父を非難するつもりはなかったが、全て比呂美の言いなりになる父は、はるか遠くから眺める存在になってしまった。その寂しさは例えようもない。兄の亮さえ、比呂美にすっかり馴染んでいるようだ。比呂美は美しく優しいが、それさえも、美緒には耐えがたく思える。
 ひとりぼっちになったと感じた美緒は、頻繁に湖を訪れ、母と対話するようになった。美緒が二歳のときに死んでしまった母を覚えているわけもないが、湖水に手を入れると、母の言葉が伝わってくるように思えるのだ。湖の水が母を記憶していると信じていた。
 今日、湖へ亮を誘ったのも、伝えたいことがあったからだ。一人で胸の中にしまっておくには重過ぎる。
 亮がポピーの花束をできるだけ遠くへと、力いっぱい湖の中央に向かって投げ入れるのを美緒はじっと見ていた。
「お兄様」美緒は決心して、亮に声をかけた。
「私ね、ここへ来るたびにお母様とお話しているんです。こうやって手を水の中に入れると、お母様を感じることができるの」美緒はしゃがんで両手を水に浸した。
「馬鹿なこと言うなよ」
「本当なの。私には分かるの。信じて。お母様は私に何かを伝えたいみたいなんですもの」
 急に亮に抱きしめられて、美緒は言葉を飲み込んだ。
「美緒、帰ろう。きっと疲れているんだ。ゆっくり休んだ方がいい」
「違うの、違うのよ。疲れてなんかいない」


               *     *     *     *


 亮は晶のスピードにあわせて、ゆっくりとペダルをこいだ。七年前、美緒と並んで湖へ向かったことが思い起こされる。あの時は、ポピーの花束を持っていった。
「さっきの花束は何と言う名の花?」湖に到着すると、亮は自転車を降りながら、晶に聞いた。
「カラーっていう名前。おば様とママが女学生の頃、名前が気に入って好きになったんだって」
「へぇ、カラーがそんなにいい名前?」
「英語ではナイルの白百合と言うらしいよ。意外と少女趣味だよね、ふたりとも」晶はクスッと笑い、水辺へと近づいていった。
「美緒ちゃんは、どんな花が好きだったんだろう」
「美緒は花より鳥に興味があったみたいだよ。昨日であったオオルリのような鳥。ふざけて幸せの青い鳥って呼んでたな」
 晶は両手を湖水に浸し、目を閉じた。
 美緒も同じような仕草をしていた。亮は自分の手を水に入れてみる。冷たいが、ただそれだけだ。十四歳という年齢よりはるかに大人びていた美緒に比べれば、晶はかなり幼い感じがする。育った環境の違いによるのかもしれない。
 ほんの二、三分ほどの時間だったのだろうが、亮にはかなり長く感じられた。ようやく立ち上がった晶の顔には、困惑の表情が浮かんでいた。
「どうしたんだ?」
「……」晶は無言で亮を見た。
「大丈夫か? 顔が蒼い」晶の手を取る。長く水に入れておいたためか、氷のように冷たかった。
「亮ちゃん、帰ろう」それだけ言うと、晶は自転車に跨った。
 別荘に戻ると、頭痛がするといって晶は部屋へこもってしまった。比呂美がノックしても、寝ていれば治ると言って扉をあけようとしなかった。
「亮さん、一体なにがあったの?」
 比呂美に問われても、亮には答えようがない。
「湖に行っただけなんですけどね」
「湖?」
「ええ、湖にしばらく手を入れていたかと思ったら、おかしくなって。思春期ってやつかな、女の子は難しい」
 比呂美には言わなかったが、あの湖には何かある。そうでなければ、晶が美緒と同じような仕草をするわけがない。いくら思春期とはいえ、あの様子はただ事ではない。亮はブラッキーを連れて、また湖へとって返した。
 神秘的で美しい湖。
 母が好きだったという湖。
 一体、ここで何が起こったのだろう。
 ブラッキーのリードをはずし、亮は湖の周囲を歩き出した。見回せば、小さな野の花が夏を精一杯生きている。
 ブラッキーはしばらく湖の畔の匂いを嗅いでいたが、湖の中へと足を踏み入れた。
「おいおい、どこへいくんだ」
 ニューファンドランド犬は足に水かきがついているほど泳ぎが得意だ。しばらく泳いだ後、岸辺に戻ってきたブラッキーは、体をぶるっと震わせて水を体から跳ね飛ばすと、亮の足元に座った。
「ウー。ワン」
「何かわかったのか? お前が口をきけたらなぁ。ウー。ワンじゃ理解できないよ」
 シャツの端を咥えて、ブラッキーは亮を引っ張る。そして水辺へと誘導した。晶がしていたように、もう一度亮は手を水に入れた。水は透明で冷たい。一体、この水に何の秘密が隠されているのだろう。
 母は亮が四歳のとき、この湖で死んだときかされている。時々ふらっと倒れることがあった母は、この湖の畔で眩暈を起こし、運悪く水の中で意識を失ってしまったのだろうと、中学生の頃父から教えられた。
 ほんとにそうだったんだろうか。
 母は殺された? 突然浮かんだ考えに、亮は驚いた。
 まさか、誰が何のために?
 美緒も殺された?
 何故?
 振り払おうとしても、一度持ってしまった疑問は心から離れない。母のため、美緒のため、この疑問を解かなければと、亮は決心した。美緒は自分が死なせてしまったようなものだから。

 亮が戻ると、晶は居間でクッキーを食べながら比呂美と談笑していた。祖父が元気なときは、白とこげ茶を基調とした、すっきりとした部屋だったが、近頃は比呂美の趣味がそこここに見受けられる。去年はなかった派手なタペストリーが部屋の調和を台無しにしていた。
「頭痛は治った?」少し呆れながら、晶に声をかけた。
「うん、もう大丈夫。クッキー食べたから」
「クッキーで治る頭痛か?」
「そうだよ」晶は屈託がない。
「晶さんから、湖で何があったのか聞いていたのよ」比呂美はにこにこ笑っている。
「そうなんですか」
「おば様に話したらすっきりして、頭痛も治っちゃったってわけ」晶はまたクッキーに手を伸ばした。
「なにがあったんだ?」
「おば様に聞いて。何回も話すの、面倒だもん」
 亮は比呂美に顔を向けた。
「あのね、湖水に手を入れると、誰かと話しているような気がしたんですって。それで怖くなったらしいけど、考えれば考えるほど、そんな馬鹿げたことはないと思いはじめて、錯覚だったと気がついたら、頭痛も治ったらしいのよ」
「それだけ?」晶の顔を見る。
「そう。それだけ。おば様のことも聞いちゃった」晶ははしゃいでいる。
「聞いたって、何を?」
「おば様も再婚なんだって。最初の人は嫌な人だったからすぐ離婚して、昔から知っていたおじ様と結婚したんですって」
「そんなことまで晶に話したんですか?」亮は非難がましく比呂美を見た。
「あら、いいじゃない。再婚なんて珍しくないもの。それに亮さんともずっとお知り合いだったじゃない。同じ別荘地にいたのだから」
 母が死んだ後しばらくは嘆いていた父も、離婚して実家に戻ってきた比呂美と結婚。屋内で飼っていた犬も、比呂美が嫌がるので外に出したと祖父から聞いている。室内犬から外犬へ、環境の変化から来るストレスだろうか、犬は一年も経たないうちに死んでしまった。
 それ以外は非の打ち所>がないほど、優しくて頭の良い比呂美だった。
「誰だって嫌いのものが一つや二つあるさ。仕方ないよ」と亮は自分に言い聞かせたのだ。

            
                                            つづく





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