写真提供は諏訪市在住のmimusan氏
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 高原の夏はそろそろ終わりに近づいている。人の訪れることの少ないこの湖を静寂が支配し、風さえも遠慮がちに吹いていた。
 水森曜子は湖畔にしゃがんで、透明な水に手を入れた。冷たさが心地よい。いつまでもこうしていたいが、そうもいかない。幼い二人の子が待っているのだ。妹の園子が「たまに息抜きをしてきたら」と言ってくれた好意に甘えて、ひとりでこの湖まで散歩に来た。
 気に入りのこの湖から十分活力を貰った。そろそろ帰らないと、と立ち上がった途端、ふっとめまいがして水の中にうつ伏せに倒れた。
 起き上がらなければ、とあせる気持ちと裏腹に、頭と首が動かない。何が起こったのかわからないまま、曜子は手足をばたばたさせた。誰かが馬乗りになってる。その手が自分の頭を抑えている。
 抗するようにあらん限りの力で首を持ち上げようとした。水面から微かに顔が出たその瞬間、薄笑いを浮かべて曜子の顔を覗いている顔が目の隅に映った。
 曜子は混乱した。
「何故?」と思うまもなく、又頭を抑えられた。水が鼻や口から曜子の体に侵入し、まもなく呼吸ができなくなった。


               *     *     *     *


 軋むような音を立てて列車が停まった。水森亮は、駅舎の外にある駐車場から構内の改札口へと向かった。従妹の早乙女晶(あきら)が乗っているはずの列車だ。
 信州にあるこの小さな駅は、プラットフォームは一つだけ。線路脇の道路からも列車の発着が見える。 「亮ちゃーん」
 左手に大きな花束を抱え、右手に真っ赤なキャリーバッグを引いている、薄いブルーのTシャツに白いジーンズの少女が目に入った。改札を通りながら手を振っている。亮はその姿を見るといつも軽いめまいを覚える。歳月を飛び越えて、死んだ妹が蘇ったように思える。晶は今年十四歳。年の割には華奢で小柄だが、当時三歳だった晶も、美緒が死んだ年齢になった。
 キャリーバッグを預かり、車へと向かう。外は夏の日差しが眩しい。
「涼しいかと思ったら、結構暑いじゃん」晶が不満げに言う。
「ここはまだ麓だからだよ。別荘のあるところまで上がれば涼しくなるさ」
 晶は花束をシルバーのベンツの後部座席に置き、助手席に滑り込むと歓声を上げた。
「高級だねー。うちのとは大違い」
「オヤジの車だから」そっけなく言うと、亮は車を発進させた。
「この前ここに来たのは、あたしが三才の時の夏だってママが言ってたけど、全然覚えてないんだ」
「十年以上前になるかな。僕はまだ高校生で、晶はあかん坊だった」
「三歳だよ、あかん坊じゃないもん」晶はぷっと頬を膨らませた。が、すぐに神妙な顔になる。
「その花束はおふくろと美緒のため? 先に湖に寄る?」
「うん。亡くなった場所に置いて欲しいって、ママから頼まれたから」
「おふくろが死んで去年で二十三回忌。早いもんだな。生きていれば五十三歳だ」
「うわぁー、曜子おばさまが五十三歳なんて、想像できない」
「写真は年をとらないから」亮は微かに笑った。
「でもさ、比呂美おばさまはとても優しそうじゃない? あたしもあんなお母さんが欲しいな。うちのママはこわすぎるよ」
「美緒にとって、比呂美さんはとても優しい母親だった。たった一年間一緒に過ごしただけだったけど。継母ってことで遠慮していたのかな」
 湖への道を登っていくにつれ、空気は冷たくなり、開けた窓から心地よい風が晶のショートの髪をそよがす。時折聞こえる鳥のさえずりが耳に優しい。
「あの鳥はなんていうの?」
「多分、オオルリだ。良い声だろう? きれいなブルーの鳥だよ」
 説明しながら、亮は晶の横顔をちらっと見た。美緒にますます似てきたと思う。時に従妹は姉妹より似ることがあるという。美緒はオオルリが好きだった。オオルリばかりでなく、鳥が好きだった。バードフィーダーを庭のあちらこちらに置いて、鳥が餌をついばむのを見ては喜んでいた。
 頭から妹の面影を振り払うと、亮はアクセルを踏んだ。
「比呂美さんがお昼を用意してくれているはずだから少し急ぐよ。湖に寄っていると十二時を回りそうだ」
「亮ちゃん、まだ比呂美さんて呼んでるんだ」
「前からそう呼んでたから。親父と結婚したからって、今更変えられないよ」
「ふーん。そんなもの?」
「そう、そんなもの。さぁ、着いたよ」

 亮の母が死んだとき、比呂美は近所の別荘に良く来ていた女子大生だったとおぼろげに覚えている。
 一度結婚したと聞いたが、すぐに離婚。それからは別荘に一年中住むようになった。亮の父はすぐに比呂美の虜になり、頻繁に比呂美と会うようになった。当時中学生だった亮にとっても、比呂美は眩しい存在だった。すぐに比呂美の家にも出入りするようになったが、祖父の別荘と比べるとかなり小さく思えた。
「何故離婚したの?」と亮は無邪気に聞いたことがある。
「結婚って、思う通りにはならないものよ」
「じゃあ、もう結婚しないの?」
 その言葉に、比呂美はふふっと笑った。それが亮に強烈な印象として残っている。

 道路わきに車を止めた亮は、後部座席から花束を取り出した。湖はいつものように静かな佇まいを見せ、人影もない。透き通った湖面は、対岸の木々の姿をくっきりと映している。変わったことと言えば、展望台のような東屋ができたくらいだ。管轄する県が観光スポットにしようと目論んでいるらしい。亮には湖に突き刺さった大きな棘のように思える。
「この湖にはいつも誰もいないみたい。とっても綺麗な湖なのに」晶は不思議そうな顔をした。
「道路からは見えないから、車で通りかかると気がつかないんだろう。歩いて通る人は殆どいないし」
 晶は花束を受け取ると、湖畔にそっと置き、両手を合わせた。黙祷が終わると、亮は複雑な思いで湖を眺めた。母と妹の命を奪った湖。こんなに静かで美しいのに。
跪いて手を湖水の中に浸していた晶が亮を振り返った。
「亮ちゃん……」
「なに?」
「……亮ちゃん、こわい顔してる」
「そうか? いつもこんな顔さ。じゃ、そろそろ行こうか」亮には、晶が別の事を言いたかったのではないかと思えた。
 別荘への道すがら、寡黙になった晶はずっと窓の外を眺めていた。

 亮は車を別荘の敷地内へ入れてエンジンを止めた。車から降りると、飼い犬のブラッキーが迎えに飛び出してきた。
「うわー、真っ黒でおっきい!」晶は車から降りるのを躊躇しているようだ。
「大丈夫だよ、こいつは大人しいし、躾もできている」亮はブラッキーの頭を軽く撫でた。
「ほんと? 噛み付かない?」晶は恐る恐るドアを開けた。ブラッキーは亮の傍に座ったまま動かない。
その時、比呂美が玄関から顔を出した。ブラッキーを見て、顔をしかめる。
「お帰りなさい、亮さん」
 形よいバストを際立たせているラベンダー色のぴったりしたTシャツを着ていると、比呂美は父の創と結婚したときから歳をとっていないように見える。当時、比呂美は三十歳、亮は十五歳だった。女性としては大柄な方であるが、若々しい比呂美との年齢差が年々縮まっているように亮は感じている。
 床が高い別荘地の家は前庭から玄関まで数段のステップがついていることが多い。車から降りた晶の顔を玄関からしばらく見下ろしていた比呂美が、にっこりとして声をかけた。
「いらっしゃい。美緒さんによく似ているので驚いたわ。この前会ってから何年ぶりかしら。確か美緒さんの七回忌の時だと思うけど」
「おば様こんにちは。お世話になります」大人びた口を利いて晶は頭をペコッと下げた。
「まだ小学生でした。四年生か五年生の頃だったと思います」
「五年も経つのね。速いものね」比呂美は感慨深げだ。
「お腹がすいたでしょう。先にお昼にしましょうね」
 比呂美が用意していた昼食のサンドイッチを食べている間中、晶は何かを考えている様子で殆ど口を利かなかった。
「晶さんはおとなしいのね。お紅茶をもう一杯いかが?」黙々と食べている晶に、比呂美は少し困惑したようだ。
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してたんです。お紅茶お願いします」
 亮は小さめに作られたサンドイッチを二切れ一度に口に入れながら晶を見た。十四歳か、難しい年頃だ。
 晶を部屋へ案内した後、亮は裏庭へ出た。芝生が敷き詰めてあるここがブラッキーの遊び場だ。フリスビーを取り出し、空中に投げる。ブラッキーは走りながらジャンプをして口でキャッチする。
「よーし、いいぞ、ブラッキー。もう一度だ」
 こうやって夏中ブラッキーと遊べるのも今年が最後になる。来年の三月には大学院を卒業する。就職したら、学生のときのように自由ではない。僕が忙しくなったら、誰がブラッキーと遊んでやるんだろうと、亮は時々不安になる。
 ニューファンドランド犬のブラッキーは体が大きく、運動は欠かせない。本来はこの別荘の持ち主である祖父の飼い犬なのだが、子犬のときから学校が休みの時は亮が面倒を見ている。亮が忙しい時は訓練士が定期的に運動させているらしい。祖父の岳人は八十五歳になるが、二年ほど前に軽い脳梗塞を起こし、東京の自宅から出ることはなくなった。
「亮さん」と呼ばれて振り向くと、比呂美がテラスに立っていた。
 比呂美は犬が好きではない。どちらかと言うと嫌いだと亮は知っている。「ハウス」と命令してブラッキーを犬小屋へと引き上げさせた。犬小屋とは言え、周囲を金網で囲い、動き回れる広いスペースのある小屋だ。ベランダには、鳥の訪れることのないバードフィーダーが半分朽ちて立っている。
「晶さんのことなんだけど」比呂美が言葉を続ける。
「どうかしましたか?」
「晶さんは私をよく思ってないんじゃない?」
「そんなことないでしょう。晶は自分も比呂美さんみたいな優しいお母さんが欲しいと車の中で言ってたし」
「亮さんのお母様と晶さんのお母様は姉妹でしょう? こだわりがあるかなと思って」
「僕が拘ってないんだから、晶がそんなこと思う訳ない。関係ないと思いますよ」
「それならいいけど……」
「晶が話をあまりしなかったから、気にしてるんですか?」
「ええ、まぁそんなとこ」
「そういう年頃なんですよ。僕から見てもあの年代は宇宙人みたいなものだから」
 比呂美は安心したように微笑んだ。
 ブラッキーが突然小屋の中から吠えた。比呂美は眉をしかめると、部屋の中へと戻っていった。
「どうした、ブラッキー」ブラッキーの視線の先を見ると、晶の姿が見えた。
「亮ちゃん、自転車ある?」
「あるよ。どこか行きたいの?」
「あたし、もう一度湖に行きたい」真剣な顔で晶は亮を見上げた。
「水に記憶があるように思えるの」
                                            つづく





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