事件から一週間ほどが経った。まだ犯人が捕まったという報道はない。あれから羽山の元へ刑事が来ることもない。営業は平常に戻ったものの、羽山はなんとなく落ち着かない。捜査の行方が気になるが知る術はない。
二時に出勤してきたアルバイトの前田に、ガラス窓を入念に磨かせた。
桜祭りが終わると、新緑の季節だ。羽山は花より新緑を美しいと思う。新緑を眺めながら飲むコーヒーもまた格別だ。初夏に向けて新メニューも考えなければ。
その日の夕刻、昇がバタンとドアを荒々しく開けて『ブルー・モンク』へ駆け込んできた。居合わせた客が驚いて入り口に視線を向ける。
「お客様、ドアを乱暴に開けないでください」昇はそんな羽山の嫌味な言葉も耳に入らないようだ。
「マスター、ビッグニュース」昇は興奮を隠し切れない。
「どうかしたのか?」
「夕刊に出てるよ。犯人が捕まったみたい」
「例の?」
「そう。どうやら暴走族の一味の仕業みたいだ」
昇が持ってきた新聞をカウンターの上で開く。
「暴走族……あいつらか。事件のあった日、騒いでいた奴らがいたな」
新聞には、暴走族の一団が面白半分に松江を橋の欄干から落としたと書かれている。
「殺すなんてつもりはなかったんだ。酔っ払ってガンつけてきたから、皆で目を覚まさせてやろうぜって……」と犯人の一人が供述している。
素子の店を出た後、近くの居酒屋でかなり飲んだらしい。その帰りに暴走族に捕まったのだろう。松江の性格なら、彼のほうから喧嘩を売っても不思議はない。
「これで一件落着だな」羽山はほっとした。いつまでもこの事件を引きずっていたくない。
「素子さんもひと安心だね。僕、ちょっと『セリジェ』へ行ってくる。プレゼントも買わなくちゃいけないしね」
「そうだ、今晩三人で飲まないかと、誘ってみてくれ。何か作っておく」
「ラジャー」昇は入ってきたときと同じように乱暴にドアを開けて出て行った。その背中に向かって羽山は「お客様、ドアは静かに開閉願います」と呟いた。
羽山は飾ってあるパイプを取り上げ、そっと撫でた。
「マスター、そのパイプに思い出があるんですか? いつも飾ってあるので気になってたんですけど」傍で洗い物をしていた前田が遠慮がちに聞いた。
「ああ、昔の恋人からのプレゼントさ」
「うわぁ、ロマンチックですね」
「だったらいいな、と思っただけだよ」羽山ははぐらかすように笑った。
パイプはドイツ旅行の土産として貰ったものだった。贈り主は羽山と同じ病院に入院していた女性だ。A型肝炎だと言っていた。安静にしていれば治ると笑っていた。
「生牡蠣に当たってしまって。夫も同じものを食べたのに、平気なんです。私の体調がわるかったのかしら」
お互い、型は違うものの同じような病気で、特に治療もない。ただ安静だけの日々を過ごすのに退屈していたこともあり、談話室で話をするようになった。羽山としては女性と雑談をするなんて、考えられないことだった。悦子に裏切られて以来、女性恐怖症になっている。だが、三十四歳になったばかりと教えてくれたこの女性には、初対面から何故か気を許していた。陽気でよく笑う彼女につられて、羽山も笑顔を見せるようになった。
『瀬田梢』この名前を思い出すと、今でも胸が少し痛くなる。いい年をして、と自分でも思う。老人の死んだとき、影を見て負けるものかと思ったこと、生い立ちから現在に至るまでを、包み隠さず梢に話したことで、羽山は新しい人生を踏み出すことが出来たのだと今でも思う。
週末には梢の夫が面会に来る。二人で並んで談笑する姿を見るたびに、梢の隣に座っているのが自分だったらどんなにか幸せだろうと思っていた。勿論、そんな気持ちを梢が気づくこともなく、羽山より先に退院した。
「もし、気が向いたらここに手紙かメールをください。ひと月後に退院したら、私はしばらく叔母の家で療養します」そう言って羽山は梢にメモを渡した。
失望するのが怖くて、連絡が来るのを期待しないようにと、羽山は自分に言い聞かせた。羽山が退院して半年が過ぎた頃、叔母の家に羽山宛の小包が届いた。中にはパイプと簡単なメモが入っていた。
「先日ドイツへ旅行した折に買い求めたものです。昔パイプを集めていらしたと伺いましたので、お送りさせていただきます。その頃のものとは比較にならないとは思いますが、ご笑納くださいませ。飾るだけにしてくださいね。肝臓を悪くして、その上肺まで煙草で汚しませんように」
差出人の名前は『瀬田梢』。住所は書かれていなかった。それから連絡はない。
桜の花は盛りを過ぎ、川面は落ちた花びらで満開だ。水の流れに乗って花びらはゆっくりと下流へ移動していく。
羽山は流れていく花びらを、橋の上から見つめていた。ロンも傍らに座って川を眺めている。
「色々なことがあった一週間だったな、ロン」しんみりとした気分で話かけた。
「もしかすると、この前お前がクーンと鳴きながら駆け寄った影は、お前の母親だったかもしれないね」
ところがロンは花粉が鼻に入ったのだろうか、「グッシュン」とくしゃみをしたと同時に鼻をゴンと橋の手すりにぶつけた。
「相変わらずドジだね。さ、ひとっ走りしよう」
しんみりとした気分はどこかへ飛んでいった。リードを持ってロンと一緒に走る。
早朝の遊歩道に人影はない。商店街はまだ寝静まっている。体が汗ばんできた。息も少し切れている。
「運動不足で体がなまったらしい。腹も少し出てきたようだし、お前と毎朝走ることにするか」羽山はロンの体を軽く叩いた。こんな穏やかな気分になれたのは何年ぶりだろう。
三十五歳で店を手放してから、羽山は過酷な労働に身を任せた。経験した仕事の数々が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
遊歩道に置いてあるベンチに座り、ロンに向かって話しかける。羽山の話し相手はこの三年間、いつもロンだった。梢の事だって安心して話せる。好感は持っているが、昇や素子には心の奥底まで明かそうとは思わない。
羽山はベンチから立ち上がると両手を頭上で組み、体を左右に曲げ、次に膝を二、三回屈伸させた。ロンも背中を反らせ、先に前足を、次に後ろ足を思いっきり伸ばした。
「ロン、帰るぞ」
遊歩道に面した店ではシャッターを半分開け、桜祭りの後始末を始めている。今年の桜の季節は終わった。桜川周辺もやっと落ち着きを取り戻したようだった。
了