次の日、やじうまとマスコミから逃れるため、羽山は店を臨時休業することに決めた。
アルバイトの前田と五十嵐に連絡を入れる。バイト代は出すからと伝えた。彼らも収入の予定があるだろう。シャッターを開け、「本日休業」の札を早々とドアのノブにかけた。書き入れ時だが仕方がない。新聞を拾って、カウンターの上に置く。
ロンにリードをつけて朝の散歩に出た。相変わらずの警官の数だ。橋とは反対方向の川下に向かって、遊歩道を歩き始めた。
少し風が強い。両側の桜は川の中央に向かって枝を伸ばし、川面には桜の花びらが流れに乗って踊っている。
「マスター、おはよう」背後で昇の声がした。
「やあ、ロン。散歩か」頭を撫でられて、ロンは尻尾を左右に少々動かした。
「相変わらず気のない尻尾の振り方だねぇ」昇は少々不満そうだ。
「昇にしては早起きじゃないか」羽山は立ち止まって、昇のぼさぼさの頭を見つめた。
「ひでえ頭だな」
「あ、そんなひどい? 今日はシャワーまだ浴びてないからなぁ」
「用はなんだ? お前、昨日からおかしいぞ」
「うん……歩きながら話すよ。ロンの散歩の邪魔しちゃ悪いから」
羽山と肩を並べて歩きながら、昇は話し始めた。
「大家さんに聞いたんだけど、殺された人は素子さんの保証人なんだって」
「保証人? 入居する時のか? かなり親しい間柄ってわけだな」
「そう。で、素子さんは警察に呼ばれたらしい。事情聴取ってやつかな。僕も昨日マスターのところから帰ったら警察が来ていて、あの日の夜のことを聞かれたんだ。写真も見せられた」
「素子さんと言い争っていたという客だね」
「暗かったし、はっきり顔見たわけじゃないから、写真見ても分からなかったし」
「お前、本当は二人の会話を聞いたんじゃないか?」
「立ち聞きしたわけじゃないよ、大きい声だったから聞こえたんだ。警察には言ってない。だって殺された人かどうかもまだ決まってないからね」
「どんな会話だったんだ?」
「素子さんが大きな声で男を責めていたような感じがした。お店を取っただけじゃ足りないの? これ以上何をしろっていうの、とか」
「男は何と返事をしていた?」
「店は借金のかたに貰っただけだ。当然の権利だ。ここに又店を出させてやったんだから、そのくらいはしても当然だ、嫌なら耳をそろえて返せ、みたいなこと言ってた。それ以上は聞いてない。慌てて帰ったから」
「その男にまだ借金があるって事か」
「そんな事わかんないよ」
「素子さんは、今家に帰っているのかい?」
「昨日の夜、青い顔して帰って来たけど、かなり疲れているみたいだよ。長時間色々と聞かれたらしいし」
素子が犯人とは思えない。だいたい男を欄干から落とすなんて体力的にも無理だろう。誰が見ているか分からない時間帯に、そんな無謀なことをしようと考えるわけがない。
二人はしばらく黙って遊歩道を歩いた。ロンもおとなしくついている。『パイナップル』の前まで戻ってくると、羽山は聞いた。
「昇は素子さんを疑っているのか?」
「まさかぁ。疑うわけないじゃん。ただ、これ以上事件に巻き込まれなければいいなと思ってるだけ。マスターはどうなのよ」
「素子さんにそんなことが出来るとも思えないし、するような人でもないと、この二年間の付き合いで分かっているつもりだ」
『ブルー・モンク』に戻ると、カウンターの上に置いた新聞を手にとった。
被害者の名前が判明していた。松江真治(45)。羽山はその名前と顔写真を凝視した。
松江真治。
年齢を確認する。
四十五才。
川に投げ込まれた際うつ伏せになったのだろうが、かなり泥酔していた為、起き上がることが出来なかったらしい。死因は溺死だった。
間違いない。あの松江だ。羽山の心臓の鼓動が速くなる。警察は事件と断定していた。
何故松江がこんなところで殺される羽目になったのか?
素子とは、どのような関係にあるのか?
羽山は心を落ち着かせるために、濃いコーヒーを入れた。ロンが足元に擦り寄って、心配そうに見上げている。
「ロン、昔の亡霊が出てきたようだ」ロンの頭をなでながら、コーヒーを口に含む。
「ほんとは強い酒でも飲みたいところだ……」
羽山はカウンターのパイプを取り上げて、両手で包むように持ち、じっと眺めた。
殺してやりたいくらい憎んでいた松江真治が死んだ。喜ぶ気持ちはなかった。心の中の傷がまた抉られた気分だ。パイプをぐっと握り締め、頭に浮かんだ湯山悦子の顔を追い払おうと首を強く振った。
初めて自分の店『ペイパームーン』を持ったのは三十才を少し過ぎた時だった。勤めていたカフェ&バーでノウハウを覚え、独立した。仕事は順調で、先行きの心配は何もなかった。持ち前の客あしらいのうまさで店は繁盛し、支店を出すまでになった。そんな時、行きつけのバーで出会ったのが悦子だった。ドレスもバッグも靴も高価な品のようだったが、それがよく似合っていた。俺より少し年下か。横目で羽山は値踏みした。
「お酒強いんですね。ここにはよくいらっしゃるの?」と声をかけてきたのが始まりだった。
「酒ぐらいしか楽しみはないですから」羽山は愛想よく答えた。
女性の一人客で、自分から男に話しかけてくる女性を、今なら警戒する。だが、当時は三十三才の若さだった。店では社長と呼ばれ、従業員達からは尊敬されている。自分には魅力があると錯覚していた。
「貴女もおひとりですか? よろしかったら、ご一緒にいかがです?」
それがきっかけで悦子と親しくなり、半年後には結婚を約束するまでになった。
支店も四を数え、事業は発展の一途をたどり、悦子に経理の一部を任せるようになった。いずれ結婚するのだから、早めに仕事を覚えてもらう方がいい、羽山はそう考えていた。
高級住宅街の低層のマンションのワンフロアーを借り、夢だったウォーターベッドも買った。
一緒に住むようになってから、通帳もカードもすべて悦子に管理させていた。
その年のクリスマスイブ、例年なら明け方まで仕事をするのだが、店はフロアマネージャーの小野に任せ、社長つきの運転手を呼び、家へ向かった。悦子を喜ばせたいと、特注で作らせたダイアのブレスレッドがコートのポケットに入っている。まだ八時だ。無理のきくレストランで食事をするのも悪くない。明け方まで帰れないかもしれないと言ってあるから、食事の支度はしていないだろう。
マンションの前で車を帰し、自宅の窓を見上げる。悦子の喜ぶ顔を心に描きながら、ドアに鍵を差し込みゆっくりと回す。部屋の暖かい空気が、羽山の体をほぐし始めた。
悦子を驚かそうと、そっと居間へ入る。だが、居間にもダイニングにも悦子の姿はなかった。いぶかしく思いながら、寝室のドアを開ける。新居のシンボルとして買ったウォーターベッドの上に、羽山の知らない男と一緒に悦子はいた。
男の顔を睨みつけ、ドアをバタンと閉めて家を飛び出した。体が震えた。状況が飲み込めなかった。混乱した頭のまま、隠れ家として使っているバーへとタクシーを走らせた。そこは個人的に上得意の客だけを招待する羽山の五番目の店ではあるが、公にはしていない場所だった。
黒光りのする大理石のカウンターにトンボ模様のランプシェード。ステンドグラスで出来ているティファニー製だ。グラスは全てバカラから購入、羽山が拘りを持って作った店だった。
カウンターに腰を降ろし、グラスに氷とウォッカを入れる。客にはカクテルで出すのだが、今はそんな気分ではなかった。だが飲めば飲むほど頭が冴えてくる。さっき見た光景が頭のスクリーンに何回も繰り返される。
「あいつは誰だ?」
羽山は自分を罵った。
「あいつを殺してやる! 俺の家だ。二人とも放り出してやる! いや、悦子は優しい女だ。理由があるはずだ。きっと騙されてるんだ。あの男が悪いんだ。くそー。バカヤロー。殺してやるぞー」拳でカウンターを激しく叩く。
やがてアルコールが回り、コートを着たまま、羽山は眠ってしまった。
寒さで目が覚めた。エアコンをつけ体を暖める。濃いコーヒーで頭も体も少しすっきりした。昨夜のことは何かの間違いだと自分へ言い聞かせながら自宅へと向かった。早朝から呼びつけられた運転手は、それでも心配そうにルームミラー越しにチラチラと羽山を見ている。
心を落ち着かせようと、自宅より五百メートル手前で車を降りた。
マンションまでゆっくりと歩く。家の窓を見上げたが室内は暗いようだ。まだ寝ているのか。そのほうが都合がいい。
羽山はガシャガシャと音を立てて鍵を回すと家へ入った。中は静まり返っている。
大声で「悦子」と呼んでみた。が、返事は聞こえない。寝室の扉を開けたが、寝乱れたベッドの中にも悦子はいなかった。広いリビング、ダイニング、ベッドルーム、そして予備の部屋がひとつ。くまなくさがしても、聞こえるのは自分の足音だけだった。
思いついてクローゼットを開けた。悦子のドレスと、隅のほうに置いてあった大型のキャリーバッグが二個とも消えていた。
コートを脱ぎ捨て居間のソファに寝転んで、羽山はぼんやりと天井を見つめた。エアコンから吹き出す暖かい空気が頬をかすめた。
どのくらいそうしていただろうか、電話の呼び出し音が羽山の頭のスイッチを入れた。飛び上がるように起きると受話器を荒々しく掴んだ。
「悦子?」
「いえ、小野です」フロアマネージャーからだった。
「なんだ、君か」
「社長、困ったことが起こりました」
「どうした」
「店の口座に残金がないと銀行から連絡がありました。支払日は明日なんですが」
「残金がない? どの口座だ」
「奥様の管理されていた口座です。私がお預かりしている通帳の口座には少々ありますが、大口は殆ど奥様が管理されていたので、私は気がつかなかったのです」小野は悦子が経理担当になったときから奥様と呼んでいる。
「すぐ店へ行く」
受話器を置くと、家の金庫を開けた。中に入っているはずの通帳、諸々の印鑑、現金が消えている。寝室へ戻ると、悦子がいつも宝石類を入れていた引き出しを調べる。あきらかに安物と思われる装飾品以外は全てなくなっていた。
打ちのめされてはいたが、羽山は店へ急いだ。マネージャーの管理していた通帳から、とりあえず従業員の給料は払える。ほっとしたのもつかの間、その日から二ヶ月間、金策と店の後始末に追われた。借り入れの返済が終わっている本店の権利書も銀行の金庫から消えていた。
何がなくなったのか、すぐには分からないほど、悦子に全てを任せていた自分を羽山は呪った。
カード会社数社からの請求も、想像を超える金額だった。しかし、何とかしなくてはならない。金策の合間に、相手の男の手がかりはないかと、悦子と初めて会ったバーへ出向いた。
「そういえば、羽山様のことをしつこく尋ねていたお客様がいらっしゃいました」
「俺のことを?」
「ええ、いつもカウンターの隅に座られる、目立たない方でした」
「何で俺のことなど聞くんだ?」
「それは、お若いのにロイヤルハウスホールドをボトルでキープされていらっしゃるからでしょう。それにコニャックよりアルマニアックを好んでいらっしゃる。若いのに凄いねと仰ってました。興味をもたれたのではないですか? 羽山様のことは、何かのお店を経営されているらしいとだけその方にお教えしましたが」
「そいつは、まだここへ来る?」
「いえ、近頃は見えません。もう一年以上いらしてないと思います。殆ど毎日のようにご来店頂いた時もありましたが」
一年前……悦子と出会った時期だ。
「名前はわからないかな」
「さぁ。寡黙な方で、お支払いも現金でしたので」
「いい気になって喋っていた俺の話を、いいカモがいると黙って聞いていたわけだ」羽山は自嘲気味に呟いた。
悦子に買い与えたアルファロメオの名義が、松江に変更されていると突き止め、やっと悦子の相手が松江真治だと判明した。銀行に残された振込み先は架空名義で複数あり、既に全額引き出されていた。
悦子を恨む気持ちは不思議とおきなかった。当時はまだ惚れていたのかもしれないと羽山は思う。
膨大な借金を抱えて店を建て直す気力はなかった。店を処分し、売れるものは全て売り、それでも残った借金を返していかなくてはならない。三十五歳で羽山の人生は急旋回した。
八年間で借金は返し終えたが、身も心もくたびれきっていた。これからは働いた全ての金を使える、そう思ったら歯止めが効かなくなった。緊張が途切れ、毎晩酒を飲む生活が続いた。外で飲む酒ではない。格安のショップで買う焼酎が主だ。シングルモルトのスコッチにはもう手が出ない。
壊れる寸前の体への大量のアルコールの注入は、アルコール性肝炎を引き起こし、入院を余儀なくさせられた。羽山は病院の白い壁に映った影をまた思い出した。
ウォーターベッドの上に横たわっていたあの男の顔を決して忘れない、いつか復讐してやる。そう誓ったその顔が目の前の新聞に被害者として載っている。家族から捜索願が出ているとは書かれていない。
「悦子は松江の妻になったのではないのか?」疑問が羽山の口をついて出た。
「素子はどこで松江と知り合ったのだろう」
つづく