写真提供は川崎市在住のsernef氏
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 ドンドン、ドンドンとどこかで音がする。頭が重い。誰かが店のドアを叩いているらしい。
程なくキーンコーンという聞きなれた音。裏口のチャイムだ。来客のようだ。頭を振って羽山は起き上がろうとした。後頭部が引っ張られる感じがする。時計の針は九時半を指している。やっとの思いでチャイムに応答した。
「どなたですか?」
「警察のものですが、開けてもらえませんか?」
「警察?」
「近くで事件があったので、聞き込みに回ってるんです」
「まだ寝てたんですよ、少し待ってください。すぐ開けるから」
 カドラーの中にロンの姿はない。もう裏口のドアに張り付いているのだろう。羽山は手早く身支度をすると、階下へ下りていった。
「なにかあったんですか?」
 二人組みの刑事らしき男はちらっと黒い手帳を見せた。年配の男は背が高く、肩幅も広くてがっちりしているが、若い男は細身で背もそれほど高くない。
「中に入ってもいいですかね?」
「疑うわけじゃありませんが、もっとしっかり手帳を見せてもらえませんかね」
 二人は渋々と手帳を開いて見せた。羽山はじっくりと手帳を眺めると、刑事達を中へ招じ入れた。
ロンはそばに寄って、匂いをフンフンと嗅ぐと、店の隅へと退散していった。
「昨日近くで事件がありましてね」二人は勧められた椅子に座ると、年配の刑事がしゃがれた声で話し始めた。もうひとりがメモをとる。
「事件、ですか……」
「川の中で男性が死亡していた事件です」
「川ってそこの桜川のことですか? 溺れるような川じゃないでしょう。水深五十センチもないと思いますよ」
「事故の線も捨てているわけじゃありませんが、状況から見ると、橋から投げ込まれたと思われます。そこで、昨日何か気がつかれたことがないかと、皆さんにお聞きしているわけでして」
「何時頃のことでしょうかね」
「昼間は人通りも多かったようですが、トラブルとかありませんでしたか? いつもと変わったこととか」
「何も気がつきませんよ。昨日は桜祭りということもあって、一日中忙しかったですから」
「こちらの営業時間は何時からですか?」
「うちは午後二時開店で、アルバイトの学生が交代で二時から九時まで働いていますよ。前田君と五十嵐君、東都大学の学生です。午後十時半頃には客も引けたので、十一時には店を閉めました。」
「九時以降はひとりで?」
「九時を過ぎると客はポツポツでしたから、ひとりで充分やれますのでね」
「その後は誰かに会いましたか?」
「十一時過ぎに隣のブティックの柳さんと古本屋の田中君が来ましたね」
 刑事は頷いた。既に事情を聞いているのかもしれない。
「九時から十一時の間に馴染みの客はいませんでしたか?」
「いや、花見客ばかりです。昨日はみんな自分の商売で忙しいから、商店街の人は来るはずないですよ」
 刑事はそれから二、三質問をすると、又伺うかもしれません、何か思い出したら知らせてくださいといって帰って行った。ロンはその後姿に向かってワンと吠えた。
 若い刑事の声を聞かなかったと、羽山は気がついた。入ってきたときも、帰るときも、軽く会釈をしただけだった。今の若者はあんなものなのだろう。
「川で死亡か。酔っ払って落ちたんだろう。人騒がせなことだ」と羽山はひとりごちた。
「昨日の影……。まさかね」浮かんだ考えを追い出すように、頭を左右に振った。
 両腕を大きく開いて伸びをすると、羽山は店のカウンターに入った。細口のポットでお湯を沸かし、冷蔵庫に入れておいた自分用のネルフィルターを取り出し熱湯をかける。苦味を強くしたシティーに焙煎して中挽きにした粉をフィルターに入れ、ゆっくりとお湯を落とす。
やがてふっくらとした香りが店内に漂ってくる。羽山はコーヒーカップを手に、テーブル席へと移動した。朝食は取らない習慣だし、昼食も開店前にカウンターで簡単に料理して済ませる。店のドアの隙間から差し込まれた新聞を拾うと、社会面を開いた。刑事の訪問が気になっている。中段の左端に記事があった。大きな扱いではない。

『桜の名所で変死体』
 八日午前0時頃、東京都○○区××町で、通りかかった男性会社員(39)から「川の中に人が倒れている」と一一〇番通報があった。○○警察署の署員が、男性がうつ伏せに倒れているのを確認した。年齢は五十歳前後と見られる。身元はわかっていない。九日、司法解剖して詳しい死因を調べる。
現場は桜の名所としても知られ、昨夜も夜桜見物の人々で賑わっており、警察では事故と事件の両面から捜査を始めた。

 読み終わって、羽山はふーっと息を吐いた。新聞を畳むとテーブルの上に置く。警察は事故の線はないと決めているようだ。
また裏口のチャイムが鳴り、ロンがすばやくドアへ突進した。
「マスター、いるんでしょう?」
 田中昇だ。羽山は無言でドアを開け、昇を店へと招じ入れた。ロンはフンフンと昇の匂いを嗅ぐと、店の隅へと移動していった。
「お前のとこにも来たか」
「刑事でしょ。来ました、来ましたよ。マスターのとこにも?」
「ああ、少し前だ」
「じゃ、僕の方が先だね。九時頃だったかな」
「何を聞かれた?」
「大したことは聞かれなかった。というか、実際知らないし」
「刑事の話のニュアンスでは事故じゃないらしいね」羽山はコーヒーカップをゆっくりと回しながら、昇の顔を見た。
「マスター、いい香りが店中に漂ってるよ」昇はクンクンと鼻腔を動かした。
「ここはカフェだからな」
「意地悪言ってないで僕にもコーヒー入れてよ」軽口を言いながらも、昇の目には心配そうな色が漂っている。
 羽山はコーヒーを入れながら、カウンターに肘を着いてぼんやりとしている昇の顔をちらっと見た。
「なにかあったのか?」
「うん……」
「そうか。コーヒー飲んで気分転換したらどうだ」
「うん……」昇はコーヒーカップを両手で包むように持つと口に運んだ。
「うまい!」一口飲んで、昇は声をあげた。
「お店で出してるのと違うでしょ。ずるいなぁ」
「人聞き悪いこと言うんじゃない。ちゃんとメニューに載ってる。そこに書いてあるだろ」
 昇はメニューを眺めた。
―コーヒー(ネルドリップ)八百円―
「高いよ」
「手間隙かかるし、豆だって違うんだから仕方ない。レギュラーは五百円にしてある」
「マスター……」
「何だ?」
「実は……」昇は言いよどんでいる。
羽山は空になったコーヒーカップを手に、黙って待っていた。
「実はね、昨日の晩のことなんだけど、ここへ来る前にセリジェを覗いたんだよ」
「何か用があったのか」
「えーとさ、実は……」
「……実は?」
「彼女のさ」
「彼女? 素子さんか?」
「やだなぁ、僕の彼女」
「彼女ができたのか」
「まだ付き合って三ヶ月なんだけど、今月末が誕生日でさ、プレゼントに何がいいのか分からなくて、素子さんに相談しようと思ったのよ。で、九時頃お店に行ったら、先客がいて」
「男の客か」羽山は呟いた。
「マスター、よく知ってるね」
「昨日自分で言ってたじゃないか」
「そうだっけ? で、その客と素子さんが言い争いをしてたわけよ」そう言うと昇はコーヒーを一口飲んだ。
「なんか、ばつが悪くて、顔を見せずに帰って来ちゃったんだけど。今朝の事件聞いて心配になって」
「何が心配なんだ?」
「だからさぁ。昨日の男は何の関係もなかったのかなぁと」
「ばかばかしい」羽山が言うのと同時に、ロンがフーッと唸った。
「そうだよね、ばかばかしいよね」ひとりで頷くと、にこっと笑ってコーヒーを飲み干し、「ごちそう様」と言って帰って行った。ロンは見送ろうともしなかった。
 羽山は飾ってあるパイプを手に取ると、無意識に磨きながら、しばらく考えていた。昇が単に言い争いを聞いただけで、あのように心配するわけがない。

 素子が『ブルー・モンク』の隣に店を出したのは二年前だった。
 それまでは靴屋だったのだが、一月に開店して一年も経たない十二月に、閉店のお知らせのビラが貼られた。斬新な店内に、洒落た靴を一足ずつ飾るように展示していたその店は、客にとってもとっつきの悪い感じがしたのだろう。店内に客のいるのを羽山は見たことがなかった。
 その店と入れ替わるようにブティックを出店したのが素子だった。
次のテナントがすぐ入って良かったですねと大家と出会った折に羽山が言うと、「私も不思議なんですよ。あの店舗が空くまで待ってたらしいんですが。そんなにいい場所ですかねぇ」大家の池上荘介は、ちらちらと上目遣いで羽山の顔を見ながら、首をひねった。
 店内の改装も以前の内装を生かしながら、手際よく行われたらしく、素子が開店の挨拶に来たのは一月も末の寒い日だった。初対面から、かなり気さくな女性だったと覚えている。
客のいない時間を見計らったかのように店に現れた素子は、菓子折りを差し出し、「オーナーの羽山さんですか。私、隣にブティック『セリジェ』を開店した柳素子です。よろしくお願いします」と少し鼻にかかった声で言うと、軽く頭をさげた。
「どうも。こちらこそよろしく」羽山はぶっきらぼうに答えた。当然、すぐ帰ると思っていた素子は、そのままカウンター席に座り、「レギュラーお願いできますか」と羽山の顔をじっと見ながら注文した。
 その時ロンは素子のそばへ来て、尻尾を振りながら愛想をふりまき、足元に座った。かなり珍しいことだった。
「お前も男だね」と内心苦笑しながら思ったものだ。「美人にはどうも弱いらしい」
 それから二年、毎日コーヒーを飲みに店に現れる素子と、冗談を言い合う間柄になっても、その素性を羽山は知らない。お互い様だ、と羽山は思う。たぶん素子も過去を切り離してここへ来たのだ。

 その日、素子は『ブルー・モンク』に姿を見せなかった。『セリジェ』もシャッターを降ろしたままだ。被害者が欄干から落とされたとされる橋は、青いビニールシートで覆われ、何台ものパトカーが取り囲むようにして停まっている。店の前の遊歩道は警官とマスコミでごったがえし、通行できない状態だ。
今日は開店休業だと覚悟していると、やじうまと思しき客がポツポツと『ブルー・モンク』に入ってくる。にわか記者になった客は、羽山を捕まえては、面白い話はないかと聞きだそうとする。いつもとは違う雰囲気に閉口して二階に避難したのか、ロンの姿はいつのまにか店から消えていた。
 午後九時ごろ、客がきれたのを潮に、羽山は閉店の準備をはじめた。アルバイトの五十嵐を帰すと、電気を消し、早々にシャッターを降ろした。
 ロンがいつのまにかそばに来て、羽山をカウンターへと誘導する。
「ごめんごめん。忘れてたよ」
羽山はカウンター内の隅に置いてあるロンの食器にドッグフードを入れた。騒々しい客ばかりで、今日は疲れた。ロンがガツガツと食べるのをぼんやりと眺めながら、昇の話を思い出していた。素子の客は誰だったのだろう。
                                            つづく





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